2018年6月4日月曜日

「四季吟詠」の募集

 俳句の総合月刊誌「俳句四季」におきまして、今年の9月号から『四季吟詠』という雑詠投句欄の選者を担当することになり、この程9月号掲載分の募集が終わりました。急に決まったこともあり、特選・秀逸・佳作合計35句を揃えるために、日頃句会でお会いする皆さんに投句をお願いし、約50句を寄せて頂きました。この中から35句を、と思っていましたら、出版社の方にも関西一円から約20句が寄せられ、約70句が集まりました。
 今後、3・6・9・12月号を担当して参りますので、次回の掲載は12月号、従って募集は8月号となります。九年母会の主宰としては初めての取り組みです。関西では既に、「田鶴」・「円虹」・「かつらぎ」・「ひいらぎ」・「未央」・「運河」・「河内野」等の主宰方が選者として名を連ねておられます。我が「九年母」も、やっとこの列に加われたのです。俳句の中道をこつこつ歩むのも大切でしょうが、それ以上に結社の勢力を拡大させることにも力を尽くさねばなりません。少子高齢化が急速に進む現代においては、何もしなければ、やがて結社は衰退・消滅するでしょう。今回をチャンスに、天下に「九年母」の名を知らしめようでは有りませんか。3ヶ月毎ですから忙しくなります。会員の皆様のご協力をお願いします。
 
 

2018年5月3日木曜日

俳号について

 俳句の作者としてそこそこの実力が付いて来た際に、俳号を付けることがある。松尾芭蕉は、幼名を金作といい、藤堂家に奉公するに及んで宗房と名乗ったが、主人藤堂良忠(俳号:蟬吟)に仕えて連句の会に出入りする頃は桃青という俳号を使っていた。主人の夭折に伴い江戸へ出た桃青は、やがて俳諧の師匠として独立。芭蕉庵に居住する頃に芭蕉という号を使うようになったという。芭蕉の他に、風羅坊などの号がある。
 因みに、私の伸一路という俳号は、九年母同人で西宮俳句協会の会長であった古澤碧水に、碧櫻会という句会の設立の際に頂いたものであり、本名の伸市郎を若干デフォルメしたもの。姓とマッチしており、自分では気に入っている。但し、本名と俳号が似ているので、親戚から来る手紙ですら宛名が伸一郎となっていることも度々である。高濱虚子の本名は高濱清、山口誓子の本名は山口新比古(ちかひこ)。いずれも本名のデフォルメである事は有名だ。
 私が俳号をお世話した方は今までに4名。最近では笹尾清君に清一路という号を差し上げた。その他の方は、何かの大会の受賞の際に差し上げたもの。ビッグタイトルを手にされた時にである。ご本人にも良い記念になると思う。
 句会や俳句講座などで、ヨシコさんやカズヨさんなど、同じ名前の方が複数おられる場合もある。こんな場合、思い切って俳号を自分で作ってみるのも良い事だ。一度考えてみられたらと思っている。但し、自分の人格と作品を代表することになるので、良く考えて決めて欲しい。ヨシ坊やトシチャンのような、陳腐な号にはしないことだ。
 

2018年4月1日日曜日

3周年

 3月30日にて、五十嵐哲也前主宰から主宰を継承して丸3年となりました。もう3年と思うと同時に、まだ3年か、とも思いました。3年間全力で走って来ました。
 哲也前主宰には播水というバックが有りましたが、私は一会員からの叩き上げです。カリスマ性が欠けていました。同人になるまでに10年掛かった凡庸な会員が、独学で俳句を学び、稲畑汀子先生に認められてホトトギス同人に推挙して頂いた、それだけのことです。目覚ましい実績を挙げた訳でもありません。六甲道勤労市民センター俳句講座でお世話した受講生の皆様に支えられ、入会以来30年間お付き合いを頂いて来た会員の皆様のご支援を頂きながら、何とか主宰を務めて来ました。
 この間、前主宰と有馬念仏寺の永岡うろお老師を見送ったことは、痛恨の極みでした。その他、ご支援頂けると思っていた皆さんが相次いで逝かれたことは、残念なことでした。しかし、ホトトギスや日本伝統俳句協会、兵庫県俳句協会などでの活動を通じて、汀子先生を始め、全国に幅広い人脈が築けました。この人脈を駆使して、俳句の世界で今後予想される困難な状況下でも九年母会が生き残っていけるように、盤石な運営体制を築いていきたいと思っています。会員の皆様のご支援をお願いします。
 
 

2018年3月4日日曜日

俳人の卵たち

 昨日は3月3日の桃の節句でした。午前中は六甲道勤労市民市民センターの俳句講座を担当し、修了後、元町の兵庫県公館で3日・4日と開催される、(公財)兵庫県芸術文化協会主催の「伝統文化体験フェスティバル」の俳句のブースに向かいました。
 毎年開催されている行事で、和楽器や短歌、茶道や華道など、様々な和文化を体験してもらうイベントです。俳句部門は九年母会と貝の会とが、1日ずつ分担してブースに詰め、子供たちを中心に、俳句に触れてもらう機会を提供しています。今年も片岡編集長、山之口同人会副会長、発行所の小柴、斉木、髙野の委員方、以上の皆さんがブースに陣取り、前を通る親子連れに、俳句を詠んでみませんか、と呼びかけました。沢山の子供たちが俳句(らしきもの)を作ってくれ、皆の前で披講し拍手をしてボードに張り出しました。少しでも俳句に興味を持ってくれるように祈りながら。
 昨年と大きく違うのは、テレビの影響です。通りかかる親子が異口同音に「プレバトでやっている、あれや」と、比較的気軽に、私達の誘いに応じてくれたことです。特に、若いお母さんが積極的でした。マスコミの影響をひしひしと感じました。
 そのようなお母さんに連れられて、1時30分からの句会に参加してくれた小学生の兄弟が居りました。
   初スキー父のせなかはとおくなる    拓郎
   初スキー初めて見たよ転ぶ母      英介
これがその子達の作品です。参加者は17名、内九年母会以外の方は6名でした。各自が自分の選を披講したのですが、この兄弟も堂々と披講し、名乗りもしっかり出来ていました。
 この子達も、やがて受験や就職、結婚などで俳句から遠ざかることになるでしょうが、心のどこかに今回の句会の事を覚えていてくれて、そしていつの日か俳句に帰って来てくれればと、切に思いました。

2018年2月3日土曜日

席題について

 私が主宰に就任してこの3月30日で3年になる。就任した当時は、選者として句会を訪問しても、後日選として句稿を送って来られても、そのほとんどが当季雑詠であった。当季雑詠方式がいつごろから九年母会に持ち込まれたのかはわからないが、播水先生が著書『句作春秋』の「兼題」という随想で、次のように述べておられる。
 「芭蕉時代に兼題というものがあったかどうか知らない。子規時代にはもっぱら題詠が行われていたようである。私が句を始めたのは大正九年であるが、その頃は兼題がありそれに席題が出るのが例であった。兼題席題を通じて十句とか七句というのでその他の句は作られなかった。つまり題以外の当季雑詠は許されなかった。こんな俳句界の中に長年育って来た私であるが、最近は兼題や席題が出ているにも拘わらずそれを作らず殆ど当季雑詠の句を出した。忙しくて兼題を考える余裕がなかったと言えば弁解になるようであるが、之が原因の一つである事は否めない。」
 播水先生らしい正直な告白であるが、九年母会の当季雑詠のルーツが分った気がする。その後数十年間、恐らく当季雑詠中心の句会が続いたのであろう。今でも本部例会では、兼題が出ているにも拘わらず、当季雑詠の句を出す人が有るが、兼題を優先させるため、私は余程の作品でなければ頂かない事にしている。兼題という同じ土俵で学ばないと、勉強にはならないからである。当季雑詠は得意な科目だけを勉強しているようなもの。理科だけが出来ても、十分な学力が付いたとは言えず、受験も出来ない。私は就任以来、各句会に兼題方式を推奨して来た。そしてかなりの句会が兼題方式になった。今後高齢化がさらに進むと、吟行が廃れて兼題方式が主流になるだろう。
 兼題に慣れた句会には、席題を一つ加える様に勧めている。訪問している先では、須磨句会、すみれ句会、五葉句会、姫路支部例会や野鳥句会等で、その効果が現れて来ており、席題で詠んだ句が巻頭を飾る様になって来た。句会場の席について、10〜20分の間に席題で詠んだ句が巻頭になる。自宅で捏ねまわして持って来た句より、席題で詠んだ句の方が高い評価を受ける。厳しい修行だが、先人たちもこれで実力を磨かれたのである。
 初心者の多い句会では無理だが、ある程度ベテランが揃っている句会では席題を出して、作句力を養う訓練をしてはどうだろう。

2017年12月31日日曜日

新年を迎えて

会員の皆様、明けましておめでとうございます。
俳句の世界では七十代は学校時代、八十代は働き盛り。彫刻家の平櫛田中は、「七十八十鼻たれ小僧、男盛りは百から百から」と喝破しています。私は昨年、古稀を祝って頂きましたが、やっと鼻たれ小僧にまで到達した訳であります。
何処の結社でも、高齢化に伴う会員の減少に苦しんでいます。しかし九年母会では若い力の芽吹きが活発になって来ています。第二回九年母賞の応募者四十名中、五十歳以下の、新人賞の対象となる方が五名おられました。最終選考で新人賞に選ばれた方は若干二十七歳。最年少の応募者は十歳の少女でした。
若手会員の成長にも目を見張るものが有ります。大阪や岡山、田辺、丹波では三十代、四十代の新人が順調に育ち、白浜、広島、芦屋でも、将来が楽しみな方々が活躍しています。
若手だけでなく年配の方々も、親や友人の勧め、ホームページの閲覧などをきっかけに入会されています。このような皆さんが会員として定着できるよう、私達先輩も努力しなければなりません。
最近、テレビの番組の影響で、俳句がちょっとしたブームになっています。その一方で、テレビや新聞・雑誌の俳壇に投句する人は増えていますが、俳句結社に入って学ぼうとする人は少ないと言われています。その原因の一つが組織に入ることの煩わしさにあると聞きます。先生への気遣い、先輩への遠慮などでしょうが、私はそれも人生の修行ではないかと思っています。嘗ての様な人間関係が希薄になりつつある現代社会に於いては、むしろ貴重な人生道場ではないかと考えます。先生や先輩について俳句の基礎をしっかり習う事は、俳人として大成するための跳躍台だと思います。チャンスがあれば、その様な方に背中を押して頂くことも有るでしょう。私自身、「九年母」一筋で学んで来て良かったと思っています。しかし、投句マニアにはこの様な喜びを味わうことが出来ません。一人の茶室で自服するような、淋しい俳句人生でしょう。
今年からは、九年母同人会のご協力を頂いて、会員の増強を強力に進めて参ります。会員お一人が年内に一人新会員を増やせば、来年の正月には会員が倍になる勘定です。皆様のお子達やお孫さんに、俳句をなさる方はいらっしゃいませんか。是非お勧め下さい。

今年が皆さんにとって良い年となります様祈念いたしまして、新年のご挨拶とさせて頂きます。

2017年12月2日土曜日

「もして」の句

ある日の句会で、こんな句が出された。

  触れもして脈打つ命袋角

いわゆる「もして」の句である。この言葉を下五に据えて詠んだ句が、雑詠選で散見される。私が俳句を始めた昭和59年頃、当時師事していた故古澤碧水にこの「もして」を教わった。古風だが俳句らしい語感が有って、好んで使った。周りの方も普通に使っておられた。しかし、調べてみると、使用例は意外に少ない。朝日文庫の虚子著『高濱虚子句集』に収録されている約4000句の中で、私の調べた限りでは次の2句だけである。

  焚火してくれる情に当りもし     虚子
  この寒さ腹立ちもして老の春     同

東京四季出版の『歳華悠悠』には五十嵐播水の句が350句収めてあるが、その中で「もして」の句は次の1句だけである。

  秋暑し女の扇借りもして       播水

五十嵐哲著句集『復興』においても、収録600句中、平成1113年の部に次の1句が有るのみである。

  豆飯のお代わりもして忌明けかな   哲也
 
私の第1句集『鳥語』を繙いてみても、平成15年の部に次の1句があるのみだ。

  野路行くや色鳥の羽拾ひもし     伸一路

そしてこの句が、私の最後の「もして」の句となった。


ホトトギス誌の雑詠欄や天地有情の欄を通読しても、「もして」の句はまず見当たらない。それが現在の状況である。全ての文芸と同様、俳句も日々進化している。絶えず新しい句材を求め、新しい詠み方を工夫することによって、俳句も進歩・発展してゆく。古い表現を使ってはいけない、ということではないが、常にフロンティアを志す気構えを持ちたいものだ。