季題と信じ込んでいるのに季題では無いという言葉がある。例えば早春賦という言葉がそうだ。
春は名のみの風の寒さよ 谷の鶯 歌は思えど 時にあらずと声も立てず 時にあらずと声も立てず、と唄いだす有名な歌がある。その歌の題名を「早春賦」という。ところで雑詠の選をしていて、こんな句があった。
野を行けば唇洩れぬ早春賦
句の意味は分かりやすい。春の野を歩めば早春賦という歌が口をついて出た、というものだ。作者は早春という季題が含まれているので、早春賦という言葉を季題であると解釈したのだろう。しかし、広辞苑にも明鏡国語辞典にも早春賦という項目は無い。勿論、ホトトギス新歳時記にも、角川の合本歳時記にもこの様な季題は載っていない。残念ながら、早春賦は季題では無く、したがって掲句は無季の句となる。この様な言葉は季題まがいの言葉と言えるだろう。
恵方巻という巻寿司がある。節分の当日に、その歳の恵方に向かって棒状のままの巻寿司を食べれば幸運が舞い込むと言われる。今年の節分では、コンビニが予測を誤って作り過ぎ、大量に廃棄したことが報じられて大きな問題になった。この恵方巻を季の言葉として句を詠む方があるが、これも無季の句となる。
早春賦でも恵方巻でも、歳時記で確認すれば季題では無い事が確認できる。疑問を感じたら、手間を厭わず歳時記と相談することだ。
2016年3月16日水曜日
狭庭という言葉
雑詠の選をしていると、狭庭という言葉を最近よく見かける。句会の清記でもしばしば目にする。自宅の庭を謙遜して、狭い庭と詠んでいるのだ。初心の時期に、俳句では丁寧語と謙遜語は使わない、と習った。17音しかない俳句で、丁寧な言葉や謙遜した言葉を使う余地はないと言われている。それなのに狭庭という言葉が流行しているのはなぜだろう。
流行語とは、だれかが使いだすとそれを真似る人がいて、広がって行く言葉である。虚子の「たんぽぽ黄」などはその典型で、春になるとどこの句会でも、一つ覚えのように「たんぽぽ黄」と詠んだ句を見かける。虚子の句集『六百句』に次の句がある。
人々は皆芝に腰たんぽゝ黄 虚子
たんぽゝの黄が目に残り障子に黄 同
これが「たんぽぽ黄」の源流であると思う。この句が人口に膾炙し、俳人の間に広がったのだろう。ある人が発明した表現はその人の専売特許であり、他の人が使うと偽物感がする。二番煎じだと思ってしまう。この事に良心の呵責を感じない鈍感な人が使って失敗するのである。杉田久女の発明した「ほしいまま」も、同様に彼女の専売特許であり、頓着せずに使っている句があると、私は無視することにしている。
さて、掲題の話に戻ろう。狭庭(さにわ)という言葉は広辞苑にない。広辞苑にないという事は、日本語として存在しないのである。広辞苑に有るのは「さ庭」という言葉だ。これには「斎(い)み清めた場所。神おろしを行う場所。」という解説がある。つまり、神祀りを行う場所のことなのである。大阪の住吉大社松苗神事の献詠句を拝見すると、この「斎庭」という言葉がしばしば出て来る。これが正しい使い方なのであろう。この「さにわ」という音が「狭庭」にも通じるので、誰かが使い始めたのかも知れない。
咲き初めし狭庭の椿ぎっしりと
雑詠選で見かけた句である。私は「狭庭」という言葉にわざとらしさを感じる。自宅の庭が広大であるのに、謙遜して狭庭と詠む厭らしさを感じるのである。謙遜表現は、俳句に持ち込んではならない主観的な表現だと思う。従って、私はこの狭庭という言葉を使った句は頂かないようにしている。
流行語とは、だれかが使いだすとそれを真似る人がいて、広がって行く言葉である。虚子の「たんぽぽ黄」などはその典型で、春になるとどこの句会でも、一つ覚えのように「たんぽぽ黄」と詠んだ句を見かける。虚子の句集『六百句』に次の句がある。
人々は皆芝に腰たんぽゝ黄 虚子
たんぽゝの黄が目に残り障子に黄 同
これが「たんぽぽ黄」の源流であると思う。この句が人口に膾炙し、俳人の間に広がったのだろう。ある人が発明した表現はその人の専売特許であり、他の人が使うと偽物感がする。二番煎じだと思ってしまう。この事に良心の呵責を感じない鈍感な人が使って失敗するのである。杉田久女の発明した「ほしいまま」も、同様に彼女の専売特許であり、頓着せずに使っている句があると、私は無視することにしている。
さて、掲題の話に戻ろう。狭庭(さにわ)という言葉は広辞苑にない。広辞苑にないという事は、日本語として存在しないのである。広辞苑に有るのは「さ庭」という言葉だ。これには「斎(い)み清めた場所。神おろしを行う場所。」という解説がある。つまり、神祀りを行う場所のことなのである。大阪の住吉大社松苗神事の献詠句を拝見すると、この「斎庭」という言葉がしばしば出て来る。これが正しい使い方なのであろう。この「さにわ」という音が「狭庭」にも通じるので、誰かが使い始めたのかも知れない。
咲き初めし狭庭の椿ぎっしりと
雑詠選で見かけた句である。私は「狭庭」という言葉にわざとらしさを感じる。自宅の庭が広大であるのに、謙遜して狭庭と詠む厭らしさを感じるのである。謙遜表現は、俳句に持ち込んではならない主観的な表現だと思う。従って、私はこの狭庭という言葉を使った句は頂かないようにしている。
2016年3月5日土曜日
耕耘機は季題か
先日の句会で次の句が出された。
耕耘機操り娘深田打つ
この句の季題は「田打」(たうち)であり、ホトトギス新歳時記では、「春の田を鋤き返し、打ちくだいてほぐすことである」とある。これに対して「耕」(たがやし)と言う季題は、田だけではなく畑も含めて土をほぐして耕作の準備をすることを言う。
掲句について、耕耘機は季題かどうかという質問があった。「耕」の傍題に、耕牛・耕馬・耕人等がある。耕人は別として、耕牛・耕馬は今では絶滅種。日本中探し回っても、農耕に牛や馬を使っているところは無く、代わって耕耘機が活躍している。ならば耕耘機を、耕牛・耕馬に代わって季題として使ってよいかどうか、これが質問の趣旨である。
俳句で最も大切なこと、それは季感つまり季節感である。虚子も「季感の無い句、若しくは無季の句は俳句では無いのである」とその著書『虚子俳話』の中で述べておられる。耕牛・耕馬には、雪を頂いた嶺々をバックに、農夫と共に畑を耕しているイメージがある。未だ寒い風の中で苦労している姿に打たれ、そこに季節感が感じられるのである。農の暦の第一頁の感じがするからである。
これに対して耕耘機に季節感が感じられるか。耕耘機の大型なものにトラクターが有る。。秋の稲刈りの時期にはコンバインという、稲刈りから脱穀、袋詰めまで一気にやってしまう機械が登場する。これらの農業機械に季節感が有るかどうか。
機械で動くものには哀れさを感じることが無い。たとえガソリンが切れて動かなくなっても、哀れを感じる事は無い。しかし、春とは言え未だ寒い中での農家や牛馬のご苦労には、季節感を感じる。季題として扱えるどうかはこの様に、季節感が有るかどうかで考えればよいと思う。従って、耕耘機は季題では無い、と私は思う。
耕耘機操り娘深田打つ
この句の季題は「田打」(たうち)であり、ホトトギス新歳時記では、「春の田を鋤き返し、打ちくだいてほぐすことである」とある。これに対して「耕」(たがやし)と言う季題は、田だけではなく畑も含めて土をほぐして耕作の準備をすることを言う。
掲句について、耕耘機は季題かどうかという質問があった。「耕」の傍題に、耕牛・耕馬・耕人等がある。耕人は別として、耕牛・耕馬は今では絶滅種。日本中探し回っても、農耕に牛や馬を使っているところは無く、代わって耕耘機が活躍している。ならば耕耘機を、耕牛・耕馬に代わって季題として使ってよいかどうか、これが質問の趣旨である。
俳句で最も大切なこと、それは季感つまり季節感である。虚子も「季感の無い句、若しくは無季の句は俳句では無いのである」とその著書『虚子俳話』の中で述べておられる。耕牛・耕馬には、雪を頂いた嶺々をバックに、農夫と共に畑を耕しているイメージがある。未だ寒い風の中で苦労している姿に打たれ、そこに季節感が感じられるのである。農の暦の第一頁の感じがするからである。
これに対して耕耘機に季節感が感じられるか。耕耘機の大型なものにトラクターが有る。。秋の稲刈りの時期にはコンバインという、稲刈りから脱穀、袋詰めまで一気にやってしまう機械が登場する。これらの農業機械に季節感が有るかどうか。
機械で動くものには哀れさを感じることが無い。たとえガソリンが切れて動かなくなっても、哀れを感じる事は無い。しかし、春とは言え未だ寒い中での農家や牛馬のご苦労には、季節感を感じる。季題として扱えるどうかはこの様に、季節感が有るかどうかで考えればよいと思う。従って、耕耘機は季題では無い、と私は思う。
2016年2月29日月曜日
紅梅と白梅
梅には紅梅と白梅とが有る。それぞれ種類が違うので、紅白別の花が咲く。紅梅には紅梅の、白梅には白梅の、それぞれ違った趣がある。
紅梅は日に白梅は月にこそ 伸一路
この句は、紅梅・白梅それぞれの趣の違いが詠めたと思っている。言葉に関する感覚に個人差があるかも知れないが、紅梅はやや温かみのある、ベクトルで言うとプラスベクトルではないかと思う。これに対して白梅は、ややマイナスベクトルのような感じがする。
先日の句会の互選で、成績の良い梅の句が二つあった。
人住まぬ家の紅梅香を拾ふ
人が住まない家というのは楽しいものか淋しいものか。私の感覚では淋しいものである。であれば、この句の場合の梅の花は、白梅とした方が淋しさが表現出来るのではないだろうか。もう一つの句は、
白梅のほころび初めて娘は嫁に
私が娘を嫁に出すのであれば、紅梅が咲いていてほしい。その方が明るくて温かい感じがする。花嫁衣裳は白無垢とされているが、せめて紅梅にして、温かく送りだしてやりたい、と思う。
紅梅が咲いていたからとか、白梅があったからとか、という理由でそのまま俳句に詠いこむことは避けるべきだ。どちらの梅が、季題としてより有効に働くかを勘案してほしい。白梅が有っても紅梅で詠めばよい。俳句は詩である。見たままでは詩ではない。
ただ最近、「思いのまま」という名前の梅を良く見かける。一本の木に紅白両方の花が咲く。季題としての使い方は難しい。思いのままには使いこなせないかも知れない。
2016年2月26日金曜日
一人称の文芸
俳句は一人称の文芸であると言われる。俳句の詠み方の原則は「いま・ここ・われ」であるとお話ししているが、俳句は「われ」の文芸なのである。ある句会で次の句が出された。
口笛で真似る鶯登校児
この句は、登校児が口笛で鶯の鳴き声を真似ている、という情景を句にしたものである。句の意味は分かるが、作者は唯見ているだけである。情景の説明をしているだけの句である。それでどうしたのか、その情景を見てどう思ったのか、という肝心なところが描けていない。
確かに季節感は出ている。しかし季節感と写生だけで俳句が詠めたと思うのは、早計である。鶯が鳴いている。作者は、一つ真似してやろう、と思った。口笛で鳴き声を真似てみた。ここで初めて作者が登場する。一句の中に作者の役割が生まれた瞬間である。読者はこの句を読んで、面白い事をする人だ、愉快な人だと思うかもしれない。また、自分もやってみようと思う人があるかも知れない。この結果、一句を通じて、作者と読者との心の交流が生まれ、俳句となるのである。
口笛を吹いているのが児童のこととなると、他人事となる。われの事ではないのである。他人の事では、読者に与える印象が弱くなる。俳句は「われ」の文芸。われが何をして、何を見、何を聞いてどう思ったか。読者と感動を共有するためには、われを描くことである。
傘を持つ持たずの思案春時雨 伸一路
口笛で真似る鶯登校児
この句は、登校児が口笛で鶯の鳴き声を真似ている、という情景を句にしたものである。句の意味は分かるが、作者は唯見ているだけである。情景の説明をしているだけの句である。それでどうしたのか、その情景を見てどう思ったのか、という肝心なところが描けていない。
確かに季節感は出ている。しかし季節感と写生だけで俳句が詠めたと思うのは、早計である。鶯が鳴いている。作者は、一つ真似してやろう、と思った。口笛で鳴き声を真似てみた。ここで初めて作者が登場する。一句の中に作者の役割が生まれた瞬間である。読者はこの句を読んで、面白い事をする人だ、愉快な人だと思うかもしれない。また、自分もやってみようと思う人があるかも知れない。この結果、一句を通じて、作者と読者との心の交流が生まれ、俳句となるのである。
口笛を吹いているのが児童のこととなると、他人事となる。われの事ではないのである。他人の事では、読者に与える印象が弱くなる。俳句は「われ」の文芸。われが何をして、何を見、何を聞いてどう思ったか。読者と感動を共有するためには、われを描くことである。
傘を持つ持たずの思案春時雨 伸一路
2016年2月22日月曜日
師匠を持つ幸せ
私には西田浩洋という師匠がある。九年母編集部の杉山千恵子さんと、正式には4月から編集部の一員となられる柏原憲治さんとご一緒に、播磨町から神戸市に転居されて以来初めて、先生のご自宅を訪問した。要件はお二人の紹介と、九年母賞選考委員就任の依頼である。
先生との出会いは、平成9年5月に開催された三木の伽耶院での、初凪句会の吟行会に於いてであった。私はその時49歳で、俳句の年齢で言えば若者であった。当時、初凪句会の世話をしておられた故渡辺さち子さんが、欠員の補充の為、九年母の雑詠欄から私を見出され、選者をしておられた浩洋先生に連絡されたのがきっかけだ。先生から二つ返事でのご了解を得て、初めて参加したのがこの吟行会であった。
当日の私の出達は、帽子から靴まで完璧な日本野鳥の会の探鳥スタイルだった。大型の双眼鏡とフィールドスコープと呼ぶ望遠鏡を格納したリュックに三脚を縛り付け、腰のポーチには野鳥の会の教科書である分厚い「フィールドガイド」が収まっていた。胸には兵庫県支部のバッジ。登山帽、ベスト、軽登山靴と、凡そ俳句の吟行とは思われない姿に、初凪句会の皆さんが目を丸くされたのを、昨日のことのように思い出す。オオルリやコゲラなどが出て、楽しい吟行になった。
句会終了後、先生に呼ばれ、リュックの中身を全部説明するように命じられた。この双眼鏡はニコンのエスパシオと言い、10倍の倍率があります、等と細かく説明した。この吟行会での思い出を、先生は「鳥博士」という随筆に纏められ、九年母誌に掲載された。素晴らしい名文であった。
それ以来、汀子先生の門を叩いた平成18年まで、先生には厳しくて温かいご指導を頂いた。六甲道の講座は先生のお世話によるものであり、五葉句会や葺合文化センターの講座は先生の後任である。もしこれらの講座を担当していなければ、今の九年母は無かった。先生のご指導については、稿を改めてお話ししたい。私の師匠は西田浩洋、と胸を張って言える幸せを思わない日は無い。
先生との出会いは、平成9年5月に開催された三木の伽耶院での、初凪句会の吟行会に於いてであった。私はその時49歳で、俳句の年齢で言えば若者であった。当時、初凪句会の世話をしておられた故渡辺さち子さんが、欠員の補充の為、九年母の雑詠欄から私を見出され、選者をしておられた浩洋先生に連絡されたのがきっかけだ。先生から二つ返事でのご了解を得て、初めて参加したのがこの吟行会であった。
当日の私の出達は、帽子から靴まで完璧な日本野鳥の会の探鳥スタイルだった。大型の双眼鏡とフィールドスコープと呼ぶ望遠鏡を格納したリュックに三脚を縛り付け、腰のポーチには野鳥の会の教科書である分厚い「フィールドガイド」が収まっていた。胸には兵庫県支部のバッジ。登山帽、ベスト、軽登山靴と、凡そ俳句の吟行とは思われない姿に、初凪句会の皆さんが目を丸くされたのを、昨日のことのように思い出す。オオルリやコゲラなどが出て、楽しい吟行になった。
句会終了後、先生に呼ばれ、リュックの中身を全部説明するように命じられた。この双眼鏡はニコンのエスパシオと言い、10倍の倍率があります、等と細かく説明した。この吟行会での思い出を、先生は「鳥博士」という随筆に纏められ、九年母誌に掲載された。素晴らしい名文であった。
それ以来、汀子先生の門を叩いた平成18年まで、先生には厳しくて温かいご指導を頂いた。六甲道の講座は先生のお世話によるものであり、五葉句会や葺合文化センターの講座は先生の後任である。もしこれらの講座を担当していなければ、今の九年母は無かった。先生のご指導については、稿を改めてお話ししたい。私の師匠は西田浩洋、と胸を張って言える幸せを思わない日は無い。
2016年2月20日土曜日
「かな」の切り方
先日の句会でこんな句が出された。
振り返る友と目くばせ初音かな
最近、このタイプの「かな」の切り方を目にすることがしばしばある。「かな」の切り方が理解されていないのだと思う。何とも感じない方が居られたら、それこそ問題である。同じ句会で出された「かな」で切った句を、いくつか例に引いてみよう。
朝日射す庭木の中の初音かな
落人の里の静寂の初音かな
分け入りて突如頭上の初音かな
さみどりの秘湯に不意の初音かな
句の出来・不出来は別として、どの句も「かな」と言う切字が効いている。初音のすぐ前を見て欲しい。どの句にも、「の」と言う助詞が入っているのが分かる。つまり、
庭木の中の初音
里の静寂の初音
頭上の初音
不意の初音
と、どんな初音であるかが分かるようになっていて、その後ろに「かな」という切字を据えて感動をあらわしている。つまり「そんな初音であることよ」と感動しているのである。ところが、掲題の句では、目くばせという言葉の後ろに、いきなり初音がきており、初音の前に助詞が無い。
目くばせ初音
こんな初音は聞いた事がない。つまり、最後を「かな」という切字で切るならば、詠嘆する対象の物(掲句では初音)をしっかり説明して、その感動を「かな」という切字で表現するという叙し方、言葉の並べ方が必要なのである。
振り返る友と目くばせする初音
と、「かな」を取って詠むのも一つの方法である。
振り返る友と目くばせ初音かな
最近、このタイプの「かな」の切り方を目にすることがしばしばある。「かな」の切り方が理解されていないのだと思う。何とも感じない方が居られたら、それこそ問題である。同じ句会で出された「かな」で切った句を、いくつか例に引いてみよう。
朝日射す庭木の中の初音かな
落人の里の静寂の初音かな
分け入りて突如頭上の初音かな
さみどりの秘湯に不意の初音かな
句の出来・不出来は別として、どの句も「かな」と言う切字が効いている。初音のすぐ前を見て欲しい。どの句にも、「の」と言う助詞が入っているのが分かる。つまり、
庭木の中の初音
里の静寂の初音
頭上の初音
不意の初音
と、どんな初音であるかが分かるようになっていて、その後ろに「かな」という切字を据えて感動をあらわしている。つまり「そんな初音であることよ」と感動しているのである。ところが、掲題の句では、目くばせという言葉の後ろに、いきなり初音がきており、初音の前に助詞が無い。
目くばせ初音
こんな初音は聞いた事がない。つまり、最後を「かな」という切字で切るならば、詠嘆する対象の物(掲句では初音)をしっかり説明して、その感動を「かな」という切字で表現するという叙し方、言葉の並べ方が必要なのである。
振り返る友と目くばせする初音
と、「かな」を取って詠むのも一つの方法である。
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