俳句は一人称の文芸であると言われる。俳句の詠み方の原則は「いま・ここ・われ」であるとお話ししているが、俳句は「われ」の文芸なのである。ある句会で次の句が出された。
口笛で真似る鶯登校児
この句は、登校児が口笛で鶯の鳴き声を真似ている、という情景を句にしたものである。句の意味は分かるが、作者は唯見ているだけである。情景の説明をしているだけの句である。それでどうしたのか、その情景を見てどう思ったのか、という肝心なところが描けていない。
確かに季節感は出ている。しかし季節感と写生だけで俳句が詠めたと思うのは、早計である。鶯が鳴いている。作者は、一つ真似してやろう、と思った。口笛で鳴き声を真似てみた。ここで初めて作者が登場する。一句の中に作者の役割が生まれた瞬間である。読者はこの句を読んで、面白い事をする人だ、愉快な人だと思うかもしれない。また、自分もやってみようと思う人があるかも知れない。この結果、一句を通じて、作者と読者との心の交流が生まれ、俳句となるのである。
口笛を吹いているのが児童のこととなると、他人事となる。われの事ではないのである。他人の事では、読者に与える印象が弱くなる。俳句は「われ」の文芸。われが何をして、何を見、何を聞いてどう思ったか。読者と感動を共有するためには、われを描くことである。
傘を持つ持たずの思案春時雨 伸一路
2016年2月22日月曜日
師匠を持つ幸せ
私には西田浩洋という師匠がある。九年母編集部の杉山千恵子さんと、正式には4月から編集部の一員となられる柏原憲治さんとご一緒に、播磨町から神戸市に転居されて以来初めて、先生のご自宅を訪問した。要件はお二人の紹介と、九年母賞選考委員就任の依頼である。
先生との出会いは、平成9年5月に開催された三木の伽耶院での、初凪句会の吟行会に於いてであった。私はその時49歳で、俳句の年齢で言えば若者であった。当時、初凪句会の世話をしておられた故渡辺さち子さんが、欠員の補充の為、九年母の雑詠欄から私を見出され、選者をしておられた浩洋先生に連絡されたのがきっかけだ。先生から二つ返事でのご了解を得て、初めて参加したのがこの吟行会であった。
当日の私の出達は、帽子から靴まで完璧な日本野鳥の会の探鳥スタイルだった。大型の双眼鏡とフィールドスコープと呼ぶ望遠鏡を格納したリュックに三脚を縛り付け、腰のポーチには野鳥の会の教科書である分厚い「フィールドガイド」が収まっていた。胸には兵庫県支部のバッジ。登山帽、ベスト、軽登山靴と、凡そ俳句の吟行とは思われない姿に、初凪句会の皆さんが目を丸くされたのを、昨日のことのように思い出す。オオルリやコゲラなどが出て、楽しい吟行になった。
句会終了後、先生に呼ばれ、リュックの中身を全部説明するように命じられた。この双眼鏡はニコンのエスパシオと言い、10倍の倍率があります、等と細かく説明した。この吟行会での思い出を、先生は「鳥博士」という随筆に纏められ、九年母誌に掲載された。素晴らしい名文であった。
それ以来、汀子先生の門を叩いた平成18年まで、先生には厳しくて温かいご指導を頂いた。六甲道の講座は先生のお世話によるものであり、五葉句会や葺合文化センターの講座は先生の後任である。もしこれらの講座を担当していなければ、今の九年母は無かった。先生のご指導については、稿を改めてお話ししたい。私の師匠は西田浩洋、と胸を張って言える幸せを思わない日は無い。
先生との出会いは、平成9年5月に開催された三木の伽耶院での、初凪句会の吟行会に於いてであった。私はその時49歳で、俳句の年齢で言えば若者であった。当時、初凪句会の世話をしておられた故渡辺さち子さんが、欠員の補充の為、九年母の雑詠欄から私を見出され、選者をしておられた浩洋先生に連絡されたのがきっかけだ。先生から二つ返事でのご了解を得て、初めて参加したのがこの吟行会であった。
当日の私の出達は、帽子から靴まで完璧な日本野鳥の会の探鳥スタイルだった。大型の双眼鏡とフィールドスコープと呼ぶ望遠鏡を格納したリュックに三脚を縛り付け、腰のポーチには野鳥の会の教科書である分厚い「フィールドガイド」が収まっていた。胸には兵庫県支部のバッジ。登山帽、ベスト、軽登山靴と、凡そ俳句の吟行とは思われない姿に、初凪句会の皆さんが目を丸くされたのを、昨日のことのように思い出す。オオルリやコゲラなどが出て、楽しい吟行になった。
句会終了後、先生に呼ばれ、リュックの中身を全部説明するように命じられた。この双眼鏡はニコンのエスパシオと言い、10倍の倍率があります、等と細かく説明した。この吟行会での思い出を、先生は「鳥博士」という随筆に纏められ、九年母誌に掲載された。素晴らしい名文であった。
それ以来、汀子先生の門を叩いた平成18年まで、先生には厳しくて温かいご指導を頂いた。六甲道の講座は先生のお世話によるものであり、五葉句会や葺合文化センターの講座は先生の後任である。もしこれらの講座を担当していなければ、今の九年母は無かった。先生のご指導については、稿を改めてお話ししたい。私の師匠は西田浩洋、と胸を張って言える幸せを思わない日は無い。
2016年2月20日土曜日
「かな」の切り方
先日の句会でこんな句が出された。
振り返る友と目くばせ初音かな
最近、このタイプの「かな」の切り方を目にすることがしばしばある。「かな」の切り方が理解されていないのだと思う。何とも感じない方が居られたら、それこそ問題である。同じ句会で出された「かな」で切った句を、いくつか例に引いてみよう。
朝日射す庭木の中の初音かな
落人の里の静寂の初音かな
分け入りて突如頭上の初音かな
さみどりの秘湯に不意の初音かな
句の出来・不出来は別として、どの句も「かな」と言う切字が効いている。初音のすぐ前を見て欲しい。どの句にも、「の」と言う助詞が入っているのが分かる。つまり、
庭木の中の初音
里の静寂の初音
頭上の初音
不意の初音
と、どんな初音であるかが分かるようになっていて、その後ろに「かな」という切字を据えて感動をあらわしている。つまり「そんな初音であることよ」と感動しているのである。ところが、掲題の句では、目くばせという言葉の後ろに、いきなり初音がきており、初音の前に助詞が無い。
目くばせ初音
こんな初音は聞いた事がない。つまり、最後を「かな」という切字で切るならば、詠嘆する対象の物(掲句では初音)をしっかり説明して、その感動を「かな」という切字で表現するという叙し方、言葉の並べ方が必要なのである。
振り返る友と目くばせする初音
と、「かな」を取って詠むのも一つの方法である。
振り返る友と目くばせ初音かな
最近、このタイプの「かな」の切り方を目にすることがしばしばある。「かな」の切り方が理解されていないのだと思う。何とも感じない方が居られたら、それこそ問題である。同じ句会で出された「かな」で切った句を、いくつか例に引いてみよう。
朝日射す庭木の中の初音かな
落人の里の静寂の初音かな
分け入りて突如頭上の初音かな
さみどりの秘湯に不意の初音かな
句の出来・不出来は別として、どの句も「かな」と言う切字が効いている。初音のすぐ前を見て欲しい。どの句にも、「の」と言う助詞が入っているのが分かる。つまり、
庭木の中の初音
里の静寂の初音
頭上の初音
不意の初音
と、どんな初音であるかが分かるようになっていて、その後ろに「かな」という切字を据えて感動をあらわしている。つまり「そんな初音であることよ」と感動しているのである。ところが、掲題の句では、目くばせという言葉の後ろに、いきなり初音がきており、初音の前に助詞が無い。
目くばせ初音
こんな初音は聞いた事がない。つまり、最後を「かな」という切字で切るならば、詠嘆する対象の物(掲句では初音)をしっかり説明して、その感動を「かな」という切字で表現するという叙し方、言葉の並べ方が必要なのである。
振り返る友と目くばせする初音
と、「かな」を取って詠むのも一つの方法である。
2016年2月13日土曜日
華やぐという表現
雑詠投句に次の句があった。
買初のデパート華やぎ人あふれ
句意は明瞭であるが、内容が主観的だ。それは、デパートが華やいでいる、という表現に現れている。デパートの売り場に大勢の人が集まっているという表現は事実を写生しただけのことだが、華やぐという表現は主観的なもの。華やいでいるかどうかは、個人的な感想なのだ。掲題の句は、その個人的な感想(=主観)を読者に押し付けようとしているのである。主観を押し付けられると、読者は反発する。「貴方はそう思うかもしれないが、デパートの買初めくらいでは、そんなに人は来ないよ、何言ってんのよ、嘘ばっかり」と。そうなると、句の鑑賞どころの話ではなくなる。
俳句は、作者と読者との心の交流によって成り立つ文芸だ。作者の感動に読者が共感してくれて初めて俳句となるのである。一方的な感動の押し付けは、我儘・自分勝手であり、読者は共感してくれない。自分の句を鑑賞(=選)してもらおうと思ったら、個人的な感想を述べず有りのままの情景を描くことが大切だ。自分の思いを主張するのではなく、情景に託して思いを伝えることである。例えば、次のように詠んでみる。
初買のデパートといふ人出かな
最近この、華やぐという表現がやたら目に付く。誰かが流行らせているのかも知れないが、こんな風潮に流されてはいけない。俳句の鉄則である、しっかりした写生と季題の活用とを忘れてはならない。
買初のデパート華やぎ人あふれ
句意は明瞭であるが、内容が主観的だ。それは、デパートが華やいでいる、という表現に現れている。デパートの売り場に大勢の人が集まっているという表現は事実を写生しただけのことだが、華やぐという表現は主観的なもの。華やいでいるかどうかは、個人的な感想なのだ。掲題の句は、その個人的な感想(=主観)を読者に押し付けようとしているのである。主観を押し付けられると、読者は反発する。「貴方はそう思うかもしれないが、デパートの買初めくらいでは、そんなに人は来ないよ、何言ってんのよ、嘘ばっかり」と。そうなると、句の鑑賞どころの話ではなくなる。
俳句は、作者と読者との心の交流によって成り立つ文芸だ。作者の感動に読者が共感してくれて初めて俳句となるのである。一方的な感動の押し付けは、我儘・自分勝手であり、読者は共感してくれない。自分の句を鑑賞(=選)してもらおうと思ったら、個人的な感想を述べず有りのままの情景を描くことが大切だ。自分の思いを主張するのではなく、情景に託して思いを伝えることである。例えば、次のように詠んでみる。
初買のデパートといふ人出かな
最近この、華やぐという表現がやたら目に付く。誰かが流行らせているのかも知れないが、こんな風潮に流されてはいけない。俳句の鉄則である、しっかりした写生と季題の活用とを忘れてはならない。
2016年2月7日日曜日
福袋は季題か
先日、九年母の雑詠の選していて、ふと次の句に目が止まった。
福袋中身交換し合ふ子等
そう言えば最近、福袋を季題として使った句をよく見かける。確かに、現代俳句協会編の歳時記「現代俳句歳時記」には、「初市」の傍題として、初売り・初荷・初商い・初糶り、そして今回のテーマである福袋が載っている。しかし、ホトトギス新歳時記にも角川合本歳時記にも、あの何でも載っているカラー図説日本大歳時記にも無い。
どうしたものかと思案していたら、テレビから「春節祭向けの福袋を沢山ご用意してお持ちしています」というコマーシャルが流れて来た。テレビショッピングでは福袋の宣伝が、季節を問わず流れている。これでは季題としては無理だ、と判断した。
季題として立てられていない季語を使う事は、必ずしも間違いではない。先日の九年母新年俳句大会でも、当日が阪神淡路大震災の21回目の記念日とあって、阪神忌という言葉を季の言葉として使った句が散見された。私は選に頂かなかったが、この言葉はこれから季題となる可能性を多分に含んでいると思う。しかし、福袋にそれだけの季節感が有るだろうか。
福袋は、箸紙や年玉、戎笹や吉兆のような、明らかに季節性の強い言葉とは違うと思う。商店が、商品の販売促進の一環として売り出すものであり、そこに季節感は無い。色々な線香を入れた、お盆の福袋だって有り得るのだ。句に季節感がなければ俳句ではない。句であっても俳句とは言わない。敢えて言うならば、短歌の上の句であろうか。
福袋中身交換し合ふ子等
そう言えば最近、福袋を季題として使った句をよく見かける。確かに、現代俳句協会編の歳時記「現代俳句歳時記」には、「初市」の傍題として、初売り・初荷・初商い・初糶り、そして今回のテーマである福袋が載っている。しかし、ホトトギス新歳時記にも角川合本歳時記にも、あの何でも載っているカラー図説日本大歳時記にも無い。
どうしたものかと思案していたら、テレビから「春節祭向けの福袋を沢山ご用意してお持ちしています」というコマーシャルが流れて来た。テレビショッピングでは福袋の宣伝が、季節を問わず流れている。これでは季題としては無理だ、と判断した。
季題として立てられていない季語を使う事は、必ずしも間違いではない。先日の九年母新年俳句大会でも、当日が阪神淡路大震災の21回目の記念日とあって、阪神忌という言葉を季の言葉として使った句が散見された。私は選に頂かなかったが、この言葉はこれから季題となる可能性を多分に含んでいると思う。しかし、福袋にそれだけの季節感が有るだろうか。
福袋は、箸紙や年玉、戎笹や吉兆のような、明らかに季節性の強い言葉とは違うと思う。商店が、商品の販売促進の一環として売り出すものであり、そこに季節感は無い。色々な線香を入れた、お盆の福袋だって有り得るのだ。句に季節感がなければ俳句ではない。句であっても俳句とは言わない。敢えて言うならば、短歌の上の句であろうか。
2016年2月2日火曜日
平仮名表記
先日の句会で次の句があった。良い句であり、選に頂こうと思った。
春時雨あおあおと畑かがやけり
しかし、あおあおの表記に違和感を覚えた。念のために広辞苑を引いてみたところ、青青の横にカタカナで「アヲアヲ」と書いてあった。やはりそうだった。青青は「あをあを」と書かなければならないのである。句の水準からして惜しいと思った。表記の間違いは、俳句の命取りになる。
戦後の国語教育で口語表現を習ったために文語表記が苦手な人が多く、「駆け抜くる」が「駆け抜ける」となるような送り仮名の間違いは日常茶飯事である。雑詠選でこれを厳しくすると、採る句が無くなるほど乱れているが、国語教育の問題でもあり、必ずしも駄目だとは言い切れない面もある。
しかし、先に述べた平仮名表記はこの問題とは根本的に異なる。本来ならば漢字で書けば何の問題も無いのだが、わざわざ平仮名で書くから失敗する。なぜ漢字表記を嫌って平仮名にするのか。漢字で書くと印象が固くなるから、平仮名の方が優しい感じがするから、などと言う理由を聞く。しかしそれは、もっと上達してから考えれば良い事で、初心の段階で、そこまで気を回す必要はない。それだけ気を回しても、残念ながら誰も気付かない。漢字を知らない人だ、と馬鹿にされるのが落ちである。
紫陽花と書けばよいのに「あじさい」と書いて失敗する。「紅葉」と書けばよいのに「もみじ」と書いて恥をかく。正しくは「あぢさゐ」・「もみぢ」。間違いが分かるだろうか。常用漢字に有る字は漢字で書く、と汀子先生も仰っておられる。
春時雨あおあおと畑かがやけり
しかし、あおあおの表記に違和感を覚えた。念のために広辞苑を引いてみたところ、青青の横にカタカナで「アヲアヲ」と書いてあった。やはりそうだった。青青は「あをあを」と書かなければならないのである。句の水準からして惜しいと思った。表記の間違いは、俳句の命取りになる。
戦後の国語教育で口語表現を習ったために文語表記が苦手な人が多く、「駆け抜くる」が「駆け抜ける」となるような送り仮名の間違いは日常茶飯事である。雑詠選でこれを厳しくすると、採る句が無くなるほど乱れているが、国語教育の問題でもあり、必ずしも駄目だとは言い切れない面もある。
しかし、先に述べた平仮名表記はこの問題とは根本的に異なる。本来ならば漢字で書けば何の問題も無いのだが、わざわざ平仮名で書くから失敗する。なぜ漢字表記を嫌って平仮名にするのか。漢字で書くと印象が固くなるから、平仮名の方が優しい感じがするから、などと言う理由を聞く。しかしそれは、もっと上達してから考えれば良い事で、初心の段階で、そこまで気を回す必要はない。それだけ気を回しても、残念ながら誰も気付かない。漢字を知らない人だ、と馬鹿にされるのが落ちである。
紫陽花と書けばよいのに「あじさい」と書いて失敗する。「紅葉」と書けばよいのに「もみじ」と書いて恥をかく。正しくは「あぢさゐ」・「もみぢ」。間違いが分かるだろうか。常用漢字に有る字は漢字で書く、と汀子先生も仰っておられる。
2016年1月31日日曜日
合評会
前回、席題について述べた。今回は更に、俳句の訓練方法としての合評会についてお話したい。句会を開く。清記・選句は通常通りであるが、披講では作者は名乗りを挙げず、代わりに各句に割り振られた番号を記録する。いわゆる点盛りである。披講が終わったら、点盛りの点数の多い句から、全員がその句の句評をする。選に採った人はその理由を、逆に採らなかった人はその理由を述べる。当然その句の作者も、素知らぬ顔をして、採った人としてその理由を述べるのである。
高得点の句については、全員の句評が終わったら、名乗りを上げる権利が与えられる。逆に点数の悪い句については、誰の句か分からないままにしておく。零点の句の場合、作者も素知らぬ顔で、自分の句の欠点を述べねばならないこととなる。酷評されても、辛抱しなければならない。作者が分からないので、良い句についても悪い句についても、だれでも自由に発言出来る。遠慮がないので率直な意見が出される。これが勉強になるのだ。
随分前の事だが、仲間7人が集まって毎月、芦屋で合評会を開いたことがある。3年ばかり続いたが、喧々諤々の句評の嵐の中で、随分成長させて頂いたと思う。自分の句を褒められるのは嬉しい。逆に批判されるのは辛い。そこまで言うか、と思う事も有った。しかし、この辛さの中にこそ、成長のバネが有るのだと思う。
欠点という事実を受け止め、それを改良するからこそ、産業は発展するのだ。自動車産業などはその典型である。ブレーキの利きが悪ければ改良する。俳句の勉強もこれと同じだ。自分の欠点から目をそらし、適当な句を作っていては、進歩はない。合評会を経験すると、この事が良く納得できる。機会が有れば、是非挑戦してみて欲しい。
高得点の句については、全員の句評が終わったら、名乗りを上げる権利が与えられる。逆に点数の悪い句については、誰の句か分からないままにしておく。零点の句の場合、作者も素知らぬ顔で、自分の句の欠点を述べねばならないこととなる。酷評されても、辛抱しなければならない。作者が分からないので、良い句についても悪い句についても、だれでも自由に発言出来る。遠慮がないので率直な意見が出される。これが勉強になるのだ。
随分前の事だが、仲間7人が集まって毎月、芦屋で合評会を開いたことがある。3年ばかり続いたが、喧々諤々の句評の嵐の中で、随分成長させて頂いたと思う。自分の句を褒められるのは嬉しい。逆に批判されるのは辛い。そこまで言うか、と思う事も有った。しかし、この辛さの中にこそ、成長のバネが有るのだと思う。
欠点という事実を受け止め、それを改良するからこそ、産業は発展するのだ。自動車産業などはその典型である。ブレーキの利きが悪ければ改良する。俳句の勉強もこれと同じだ。自分の欠点から目をそらし、適当な句を作っていては、進歩はない。合評会を経験すると、この事が良く納得できる。機会が有れば、是非挑戦してみて欲しい。
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