2017年12月2日土曜日

「もして」の句

ある日の句会で、こんな句が出された。

  触れもして脈打つ命袋角

いわゆる「もして」の句である。この言葉を下五に据えて詠んだ句が、雑詠選で散見される。私が俳句を始めた昭和59年頃、当時師事していた故古澤碧水にこの「もして」を教わった。古風だが俳句らしい語感が有って、好んで使った。周りの方も普通に使っておられた。しかし、調べてみると、使用例は意外に少ない。朝日文庫の虚子著『高濱虚子句集』に収録されている約4000句の中で、私の調べた限りでは次の2句だけである。

  焚火してくれる情に当りもし     虚子
  この寒さ腹立ちもして老の春     同

東京四季出版の『歳華悠悠』には五十嵐播水の句が350句収めてあるが、その中で「もして」の句は次の1句だけである。

  秋暑し女の扇借りもして       播水

五十嵐哲著句集『復興』においても、収録600句中、平成11〜13年の部に次の1句が有るのみである。

  豆飯のお代わりもして忌明けかな   哲也
 
私の第1句集『鳥語』を繙いてみても、平成15年の部に次の1句があるのみだ。

  野路行くや色鳥の羽拾ひもし     伸一路

そしてこの句が、私の最後の「もして」の句となった。


ホトトギス誌の雑詠欄や天地有情の欄を通読しても、「もして」の句はまず見当たらない。それが現在の状況である。全ての文芸と同様、俳句も日々進化している。絶えず新しい句材を求め、新しい詠み方を工夫することによって、俳句も進歩・発展してゆく。古い表現を使ってはいけない、ということではないが、常にフロンティアを志す気構えを持ちたいものだ。

2017年11月2日木曜日

連想の文芸

 俳句は十七音しか有りません。何百ページも費やして作者の思いを述べる小説と比べると、読者に伝えられる情報の量はごく限られています。しかしこの限られた世界でも、俳句の仕組みを最大限に活用すれば、小説より多くの情報を読者に伝えることも可能です。それには連想の力を使うことです。

 その俳句の仕組みの一つが、季題の活用です。季題をバネにして読者の心の中に飛び込み、連想を広げることによって、俳句は無限大の舞台を獲得できるのです。

     筵干し並ぶ庭先鶏頭花      茂子

 嘗てある句会に出された句ですが、鶏頭という季題の働きが脳の記憶中枢を刺激し、農家の庭先の情景を読者の心の中に展開してくれます。農家の事であり、庭先といっても石組や造り滝がある訳では有りません。畑と庭の境目が無い、そんな庭先です。幾畝かの畑には、大根の大きな葉が並んでいます。畑の隅には真っ赤な鶏頭が数本咲いています。縁先には何枚かの筵が広げてあり、収穫した唐黍や小豆等が干してあります。筵の上を赤とんぼが飛んでいます。竿に干された洗濯物が風に揺れています。卵を産んだのか、鶏舎でコ・コ・コ・コと鳴く声がします。畑の杭に飛んできた鵙が、キーッ・キーッと鳴きだしました。畑から田圃へ続く径には曼珠沙華が咲いています。どこにでもある農村の秋の風景で。

 優れた句は、十七音であっても、これだけの連想の広がりを演出してくれるのです。練達の方なら、私などが及びもつかない連想の世界を味わえることでしょう。俳句で最も大切なことは季感です。虚子先生は「無季若しくは季感のない句は、俳句ではないのである」と、その著『虚子俳話』の中で述べておられますが、掲句には秋という季感が溢れています。

 季題を活用して読者の連想を膨らませるのが俳句という文芸であり、連想の広がる世界が大きければ大きい程、優れた俳句であると思います。

2017年10月2日月曜日

旅吟に思う

旅吟とは、旅に出た際に詠んだ俳句の事です。九年母誌の雑詠欄にも、毎月旅の句が沢山寄せられています。最近の特徴として、海外旅行に行って詠んだ句を投稿するケースが増えて来ています。
 10月号の随想で、「ご当地俳句」という一文を載せ、平明な句を詠むためには、一般的でない「ご当地」の固有名詞を使わない方が良い、と申し上げました。知らない人には理解が出来ないからです。海外旅行の旅吟でも同じことが言えると思います。

      摘みて挿すラップランドのコクリコよ

この句は九年母の大先輩で、嘗て編集・発行所を担当された、今は亡き方の作品ですが、私には、当初何の事か理解が出来無かった。世界を股にかけて経済活動に活躍され、58か国を旅された方ですが、申し訳ないのですが私には意味が分からなかったのです。インターネットで調べてみると、ラップランドとはノルウェー北部から北海までの沿岸地帯で、フィンランド、スウェーデン、ロシア北部を含む地方。コクリコとは花の名前で、ひなげしのフランス語だとあります。

 鑑賞せよと言われても、知識が無ければ不可能です。世界を股にかけておられた大先輩は、何のためらいもなく詠まれたのでしょうが、浅学菲才の後輩には、鑑賞するという以前、珍しい句だと感心してしまいます。これでは季題の働きどころではなくなります。ここに海外吟の難しさがあると思います。これからも世界旅行に行って俳句を詠まれるでしょうが、どう詠めば平明な句になるか、考えて頂きたいと思います。誰にでも分かる句にしたいものです。

2017年9月2日土曜日

兼題と当季雑詠

 俳句の詠み方には、兼題、嘱目と雑詠があることはご承知の通りです。嘱目は吟行に出かけて詠む際に用いられる、目に触れた季題を使って詠む方法です。問題になるのは、兼題と雑詠です。私の母方の祖父も俳句を詠んでおりました。といっても山村の俳句好き程度だったと思いますが、明水という号を持っていました。その祖父の大正時代の句会の記録が残っていますが、全て題詠です。つまり兼題があらかじめ出て、その題で詠んで句会に持ち寄る形です。句会の記録には、当日に発表される席題の句も残っています。

 その後いつの頃からか、当季雑詠という詠み方が流行るようになりました。「九年母」の昭和63年1月号の句会案内欄を見てみますと28句会中15句会が当季雑詠で句会を実施しており、兼題の句会は9句会に過ぎません。ところが最近では兼題方式の句会が増えて来ました。今月号の句会案内欄では、37句会中20句会が兼題で実施、当季雑詠は8句会に過ぎません。完全に逆転しています。

 なぜ兼題方式が増えて来たのか。それは、俳句は季題を活用して詠むという考え方が浸透してきたからだと理解しています。当季雑詠では、どうしても自分の得意な季題に偏りがちです。詠みたくない季題には見向きもしないでしょう。しかし兼題だと、好き嫌いは言っておれません。海女や猟犬も詠まないといけない。その結果として、様々な兼題を勉強するようになり、季題のレパートリーも広がって行くことになります。これに対して当季雑詠の場合は、どうしても身の回りの季題で詠んだ、出来合いの句を出してお茶を濁してしまうことになりかねず、季題のレパートリーも狭くなりがちです。

 作句力の向上のためには、難しい兼題に取り組む事も必要です。雑詠だけの句会では、せめて席題でもお出しになる事をお勧めします。

2017年8月3日木曜日

また来たくなる句会

 本日8月の本部例会が、いつもの新長田ピフレホールで開催され、56名の参加が有りました。今回は、俳句と文章でつづる総合文芸誌『沖ゆくらくだ』の近藤発行人が取材に来られましたが、ことほど左様に、この勉強会は世間から注目されている様です。

 今回は、初めての方が4名参加されました。お名前を紹介する機会が無かったのですが、次回もお出でになったら、紹介させて頂きます。今日の兼題は「墓参」と「踊」だったのですが、しみじみとした、良い句が沢山発表されました。今後雑詠欄に投句されるでしょうから、「選後に」でその素晴らしさを紹介したいと思います。

 ただ、墓参の句で気になったのは、墓を洗いながら両親に感謝したとか、詫びたとかという紋切型、常識型の句が散見された事です。九年母会員の中にも、親不孝な人がこんなにおられるとは意外でした。いつも申していますように俳句は詩です。墓の親に謝って、何処に詩があるでしょう。親に謝るのは個人的な問題です。個人的な事を俳句にしても、我儘な句になりがちです。私なら「ええ加減にせんかい」と思ってしまいます。

 踊という題では、名所案内の様な句が散見されました。踊りは、盆踊の事です。タンゴやルンバでは有りません。櫓の灯を目当てに、彼の世から帰って来られます。ご先祖や亡き人の冥福を祈り、御魂を鎮めるために踊るのです。その歴史的、文化的な重みを無視すると、観光案内の様な句になってしまいます。
     
        復興の秘めし決意や盆踊    伸一路

発行人の近藤さんは、「この句会はまた来たくなる句会ですね」と語っておられました。これからも、益々内容を充実させて参りますので、是非ご参加下さい。

2017年7月3日月曜日

敷居の高さ

私が最も力を入れている句会、それは本部例会です。3年ほど前は、多い時でも20名前後の参加者でしたが、現在では50名を超える勢いになって来ました。かつては、一部のベテランだけが、高級サロンの様に参加していました。いわゆるお局様の句会です。これでは若い人が参加できず、参加者は14〜16名と、低迷していました。しかし今では、本当に俳句を学びたい方が中心の勉強会になっています。選も厳しく、ベテランでも全没になる事が度々あります。

一方、未参加の方に参加をお勧めするのですが、敷居が高くて、と断られます。多分、嘗ての、特権階級の句会のイメージが色濃く残っているのかも知れません。今では70歳台の方が中心で、40歳台の方も居られます。

かつてのお局時代をご存じない方で敷居が高いと仰る方は、参加するのが怖いのでしょう。怖いのは当たり前ですが、怖がっていては上達は望めません。本人が怖がっていたら、是非エスコートしてあげて下さい。慣れたら何と言う事はないのです。入口の部分だけ、お世話してあげて下さい。敷居そのものが無い事に気づくことでしょう。

今の時代の若い人たちは、結社に所属することや、句会に入ることを嫌う傾向があるようです。ネット句会や、俳句雑誌の投句欄の盛況ぶりがそれを物語っています。個人的な句会に入って人間関係で苦労する、中元だ歳暮だと気を遣う、これが嫌なようです。それなら、本部が主催する句会に参加されるのが良いでしょう。選者は主宰だけ。これなら個人的な軋轢は生じません。

かつての指導者が高齢化し、句会の指導が出来なくなりつつあります。その為、本部例会の参加者の増加が見込まれます。指導的にも会場の関係でも、50名くらいが限界のようですから、場合によっては初心者向けの第2本部例会を設けることも考えています。
ご健吟下さい。

2017年6月2日金曜日

心の若さと俳句

 俳句人口の高齢化が叫ばれるようになって久しくなりました。どこの結社でも、最大の課題は会員の高齢化だと思います。結社だけでなく、その集合体である各俳句協会でも同じ悩みを抱えています。ある俳句協会の機関誌が急激に薄くなって驚かれた方も有るでしょう。世代交代の時期なのかもしれません。九年母会も、同じ問題を抱えています。逝去されたり高齢者施設に入られたりと、入会者より退会者が上回る状況が続いています。
 それだけではなく、俳句そのものも高齢化が進んできたように思います。雑詠の選をしていると、最近、次のような句が目立つようになりました。

      風船をついて遊びし日も遠く
      草餅を母と作りし日の遠く
      囀や庭も古りたり吾も老い

どの句も、過ぎ去りし昔を思い出す、作者の思いの強い句です。平明で余情の有る句を詠むようにと、播水、哲也両先生は説かれました。しかし、ここに挙げた句に、余情が有るでしょうか。余情とは老いた我が身を嘆くことでも、過去を回想することでもありません。詩を詠む事です。詩を詠むためには、例え体は衰えても心の緊張を保ち、感動を探すことです。辛いとき、苦しい時こそ、自分の気持ちを鼓舞するためにも、心して若い句を詠みましょう。哲也先生の句集『復興』の最後から二つ目に、こんな句が有ります。

      熱燗や話昭和を遡り   哲也

要は心の持ち方です。心まで老いてはなりません。