2015年9月18日金曜日

連想の文芸

俳句は十七音しかない。何百ページも費やして作者の思いを述べる小説と比べると、読者に伝えられる情報の量はごく限られている。しかしこの限られた世界でも、俳句の仕組みを最大限に活用すれば、小説より多くの情報を読者に伝えることも可能だ。それには連想の力を使う必要がある。

その俳句の仕組みの一つが、季題の活用である。季題をバネにして読者の心の中に飛び込み、連想を広げることによって、俳句は無限大の舞台を獲得できる。

     筵干し並ぶ庭先鶏頭花      茂子

先日の句会に出された句であるが、鶏頭という季題の働きが脳の記憶中枢を刺激し、農家の庭先の情景を読者の心の中に展開してくれる。農家の事であるから、庭先といっても石組や造り滝がある訳ではない。畑と庭の境目が無い、そんな庭先である。幾畝かの畑には、大根の大きな葉が並んでいる。畑の隅には真っ赤な鶏頭が数本咲いている。縁先には何枚かの筵が広げてあり、収穫した唐黍や小豆等が干してある。筵の上を赤とんぼが飛んでいる。竿に干された洗濯物が風に揺れている。卵を産んだのか、鶏舎でコ・コ・コ・コと鳴く声がする。畑の杭の先に飛んできた鵙が、キーッ・キーッと鳴きだした。畑から田圃へ続く径には曼珠沙華が咲きだした。どこにでもある農村の秋の風景だ。

優れた句は、十七音であっても、これだけの連想の広がりを演出してくれるのである。練達の方なら、私などが及びもつかない連想の世界を味わえることだろう。俳句で最も大切なことは季感である。虚子先生は「無季若しくは季感のない句は、俳句ではないのである」と、その著『虚子俳話』の中で述べておられるが、掲句には秋という季感が溢れている。

季題を活用して読者の連想を膨らませるのが俳句という文芸であり、連想の広がる世界が大きければ大きい程、優れた俳句であると思う。

2015年9月14日月曜日

住吉大社観月祭

今日9月14日は、私の生涯でも、忘れることが出来ない一日となった。大阪の住吉大社祈祷殿の神前にて、午前10時から、私の献詠俳句選者の委嘱式が催行された。巫女さんに案内されて入場し、神前に畏まって座っているのは私一人。その私の為に、神官が選者就任を報告する祝詞を奏上された。玉串奉奠の後、神人の神楽歌に合わせて、4人の巫女が神楽を舞って下さった。神楽の後、宮司から委嘱状を頂き、神事が終わった。「九年母」の2代目の選者である山本梅史以来、播水、哲也と続いてきた住吉さんの献詠俳句の選者に、私が就任した瞬間であった。

その後別室にて、他の選者の方と、事前に提出した選句の結果に基づいて、天・地・人の各賞入賞者と、佳作10句の入選者を決めた。投句された五百数十句の中から3句を選ぶのは、なかなか大変な作業であった。入選者には追って通知が出される。選者の一人で、入院されていた古賀しぐれ「未央」主宰のお元気なお姿を拝見出来たことも嬉しい事だった。

今月27日(日)の夜、観月祭が催行される。住吉さんから頂いた資料により、その様子を再現してみよう。「中秋の名月の夜、6時、第一本宮にて観月祭祭典並びに献詠歌句入選者表彰式に引き続き反橋前へ前進。反橋の真上より名月が昇る中、反橋上において冷泉流による入選和歌の朗詠と入選俳句の朗読がある。このあと住吉踊と天王寺楽所雅亮会による舞楽が奉納される。祭典終了は八時半頃。」(平成26年住吉大社観月祭献詠集より)

私は選者として、表彰式に参列する。今まで投句されたことが無い方も、満月の下で繰り広げられる絵巻をご覧になり、来年の観月会の応募句の準備をされては如何。

     歌神に捧ぐる一句月今宵    伸一路