2015年11月11日水曜日

種を蒔く

姫路市の林田小学校の、俳句の授業の見学にお招き頂いた。この見学は、『姫路青門』の中嶋編集長ほか地元俳句結社の皆さん、高砂俳句協会の原会長や九年母会の野間田姫路支部長のご尽力で実現したもので、大変有意義な経験をさせて頂き、感謝に堪えない。

小学校3年生と4年生各1クラスの児童が4班に分かれ、地元の篤志家の俳人6名に引率されて約1時間ほど、校庭やその周辺を吟行。教室にもどって俳句を纏め、互選をして1〜3席の作品を決めるという授業であった。

私も、原会長が指導される第4班の児童達13名と、正門に隣接する畑に吟行に出た。地面に落ちた熟柿や青蜜柑、カリフラワーに付いている菜虫や天道虫、人参の葉についている黄揚羽の幼虫など、目に付いたものを児童たちに示し、季題であることを説明した。児童達は、懸命にノートに句を書きつけていた。どの子もスラスラと五七五に纏めるのには驚いた。

教室では、詠んできた句の中から、班の指導者が各児童につき3句づつ選をし、その句を班ごとに互選。各班で選ばれた5句を持ち寄って児童全員で互選し、上位の作品を決めるという手順であった。

感動したのは、児童たちの俳句への素直な接し方だった。有季定型以外の、一切の束縛の無い環境の中で、自由に詠んでいた。見たまま感じたままを、素直に、自分の言葉で表現していた。この体験を、3年生・4年生のこの時期に積ませる事によって、俳句の潜在能力が種痘のように植えつけられるのである。そしてその効果は、30年後、50年後に現れて来るのだろう。

私は最後の挨拶の中で、「これからも素直に見たままを詠んでほしい、そして皆さんの中から日本を代表する俳人が育ってくることを期待している」と述べた。

やがてこの子たちも受験戦争に飲み込まれ、俳句からは遠ざかるだろう。それでよいのだ。俳句という国民文化は、地下水のように、枯れることなく静かに流れ続ける。その為の種を蒔いておられる地元の篤志家の俳人の、志の高さにも感動した。