2016年2月2日火曜日

平仮名表記

先日の句会で次の句があった。良い句であり、選に頂こうと思った。

      春時雨あおあおと畑かがやけり

しかし、あおあおの表記に違和感を覚えた。念のために広辞苑を引いてみたところ、青青の横にカタカナで「アヲアヲ」と書いてあった。やはりそうだった。青青は「あをあを」と書かなければならないのである。句の水準からして惜しいと思った。表記の間違いは、俳句の命取りになる。

戦後の国語教育で口語表現を習ったために文語表記が苦手な人が多く、「駆け抜くる」が「駆け抜ける」となるような送り仮名の間違いは日常茶飯事である。雑詠選でこれを厳しくすると、採る句が無くなるほど乱れているが、国語教育の問題でもあり、必ずしも駄目だとは言い切れない面もある。

しかし、先に述べた平仮名表記はこの問題とは根本的に異なる。本来ならば漢字で書けば何の問題も無いのだが、わざわざ平仮名で書くから失敗する。なぜ漢字表記を嫌って平仮名にするのか。漢字で書くと印象が固くなるから、平仮名の方が優しい感じがするから、などと言う理由を聞く。しかしそれは、もっと上達してから考えれば良い事で、初心の段階で、そこまで気を回す必要はない。それだけ気を回しても、残念ながら誰も気付かない。漢字を知らない人だ、と馬鹿にされるのが落ちである。
 
紫陽花と書けばよいのに「あじさい」と書いて失敗する。「紅葉」と書けばよいのに「もみじ」と書いて恥をかく。正しくは「あぢさゐ」・「もみぢ」。間違いが分かるだろうか。常用漢字に有る字は漢字で書く、と汀子先生も仰っておられる。

2016年1月31日日曜日

合評会

前回、席題について述べた。今回は更に、俳句の訓練方法としての合評会についてお話したい。句会を開く。清記・選句は通常通りであるが、披講では作者は名乗りを挙げず、代わりに各句に割り振られた番号を記録する。いわゆる点盛りである。披講が終わったら、点盛りの点数の多い句から、全員がその句の句評をする。選に採った人はその理由を、逆に採らなかった人はその理由を述べる。当然その句の作者も、素知らぬ顔をして、採った人としてその理由を述べるのである。

高得点の句については、全員の句評が終わったら、名乗りを上げる権利が与えられる。逆に点数の悪い句については、誰の句か分からないままにしておく。零点の句の場合、作者も素知らぬ顔で、自分の句の欠点を述べねばならないこととなる。酷評されても、辛抱しなければならない。作者が分からないので、良い句についても悪い句についても、だれでも自由に発言出来る。遠慮がないので率直な意見が出される。これが勉強になるのだ。

随分前の事だが、仲間7人が集まって毎月、芦屋で合評会を開いたことがある。3年ばかり続いたが、喧々諤々の句評の嵐の中で、随分成長させて頂いたと思う。自分の句を褒められるのは嬉しい。逆に批判されるのは辛い。そこまで言うか、と思う事も有った。しかし、この辛さの中にこそ、成長のバネが有るのだと思う。

欠点という事実を受け止め、それを改良するからこそ、産業は発展するのだ。自動車産業などはその典型である。ブレーキの利きが悪ければ改良する。俳句の勉強もこれと同じだ。自分の欠点から目をそらし、適当な句を作っていては、進歩はない。合評会を経験すると、この事が良く納得できる。機会が有れば、是非挑戦してみて欲しい。