2023年9月3日日曜日

虚子の予言

 先日ある結社の主宰と、季重なりや切字について話をする機会がありました。私は季重なりや切字についてはうるさく言う方針ですが、その主宰は、季重なりについても切字についてもあまりうるさく言わないようにしているとのことでした。あまりうるさく言うと作者が委縮してしまうので、出来るだけのびのびと詠むような指導を心掛けているとのことでした。

選をしていると、この作者は季題や切字の使い方について、基礎的な勉強をしていないのではと思うくらい、自由奔放な句が有ります。俳句は人様々であり、型にはめるのはおかしいという選者も居られます。

芭蕉が今の俳句の原型を打ち立てられた時には蕉風と言われる詠み方が有りましたが、芭蕉の没後それが崩れて百家争鳴の状態になりました。数十年後にその状況をを憂いた蕪村が蕉風への回帰を呼び掛け、しばらくは奏功しましたが、やがて再び月並俳諧に堕落してしまいました。明治になって子規により俳句の改革が叫ばれ、虚子の活躍によって客観写生や花鳥諷詠などの作句理念が全国に普及しました。その後、その後虚子の指導に反発する人もあり、幾多の変遷を経て現在の俳句の状況に至っています。

しかし、季重なりの容認や切字の否定などを通じて、再び月並みに戻ろうとする流れが起こってきています。汀子先生が日本伝統俳句協会を立ち上げられたのは、実にこの流れに抗するためだったのですが、少子高齢化も影響して、汀子先生亡き後、伝統俳句に迫力がなくなって来ているように思われます。

昭和10年12月に、赤星水竹居という虚子の高弟が虚子に尋ねました。「先生、百年経ったら、俳句はどうなっているでしょうか」これに対して虚子は「また元の月並みに返りますね」と答えられたと、水竹居著「虚子俳話録」にあります。それから今年で88年。もうすぐ100年になります。テレビの俳句ショーと言い最近の季重なりの状況と言い、虚子の予言が当たるかも知れないという恐ろしさを感じる今日この頃です。