2015年12月5日土曜日

自己満足の句

先日の句会で、次の句が投じられた。

       やつと来し古城の道の落葉踏む

この句の作者は、ある城を是非訪うてみたいと長い間希望して来たが、この度ようやく念願がかなって訪問することができた。落葉を踏みながら、城の歴史に思い巡らせる作者であった。めでたしめでたし、となるかどうか。読者の中には作者に同情する方も有るだろう。行けて良かったね、と。

しかし冷静に考えてみると、この句の中に使われている季題は「落葉」であり、城の落葉を踏みながら、城に纏わる歴史に思いを致せばよいのであって、やっと来たかどうかは、読者にはどうでもよい事ではないだろうか。

この句のように、作者には大切な事であっても、作品としては必要が無い言葉がしばしば混ざることがある。別の句会で、次の句が出された。

       母と我落葉掃きつつ老ひにけり

読者としてはそうですかとしか言いようがなく、同情はするが、どうしてあげようもない句である。主観の強い句といってしまえばそれまでであるが、後味の悪さだけが残ってしまう。

この様な、自分にだけわかる句は句帳に留めておき、外部には発表しないという姿勢が大切である。句の出来・不出来は別として、少なくとも人様のお目に掛けられる句かどうか、つまり発表できる句かどうかの判断は自分でしないといけない。これは俳句作家としてのマナーであると思う。

俳句は楽しく・明るく・大らかに詠みたいものである。

2015年12月1日火曜日

寛選と厳選

九年母誌の巻頭に、五十嵐播水の著書『句作春秋』から一文を抜いて掲げられている。今月号には「寛選と厳選」と題する文章が載っている。寛選が良いか厳選が良いか、つまり、雑詠の選について、寛大な選が良いか厳しい選が良いか、という事について述べられているのである。播水選は、今では想像もできないくらい厳選であった。但し、作品について厳選であり、会員個人については思いやりのある方であった。風邪を引いたと投句用紙の通信欄に書いてあれば、即見舞いの手紙をお書きになった。しかし雑詠選については峻厳を極めたのである。

九年母の主宰を継承して8ヶ月が経過した。主宰の最大の仕事は雑詠の選だ。私なりに雑詠選の要領が掴めて来た。1月号の選では、4句の入選率が19%となった。雑詠選は結社誌の金看板であり、巻頭句を見ただけでその結社のレベルが分かる、と言われている。九年母が俳句結社として高い評価を受けるためには、先ず素晴らしい巻頭句を選ぶことだ。加えて、4句選の句の質を高めて行く事。これは主宰としての私の責任である。私にとって寛選とは、この責任を放棄することだと思う。

その意味から言っても、九年母誌は、やっとスタートラインに付けたのである。寛選に慣れた方には厳しい事になるが、会員の減少を食い止め、結社誌として生き残って行くためにはやむを得ない事であるとこを理解してほしい。舵は大きく切られたのである。

私の選は作品本意。たとえ古い方であろうと、句が良く無ければ頂かない。新しい方であっても、句が良ければ頂く。序列にも拘らない。句が良ければ、新しい方であっても前へ出す。これからは、3句入選で合格と考えて欲しい。2句入選は頑張ってほしい、という合図と受け止めて欲しい。