2015年9月26日土曜日

神戸の芸術文化

九年母10月号の最終校正も終わり、印刷に掛かった。29日には発送作業がある。昨日は11月号の原稿校正があり、印刷所に回す前の雑詠選や同人作品、巻頭者の言葉、自句自解、私の俳歴などの原稿を通覧して、字の誤りなどを点検した。新しいスタッフの仲間も仕事に慣れ、俳句に対する素晴らしい意欲を秘めつつ、粛々と作業を進めておられ、まことに頼もしい限りである、

原稿校正が午前中で終わったので、午後は三宮の中央図書館で12月号の雑詠の選をした。5時20分に図書館を出て生田神社会館で開催された「第18回 アーテイストの集い」に参加した。この会は、神戸で活躍する様々な分野の芸術家の集いで、東京オリンピックの前年、昭和38年に「8の会」として発足した。資料を見てみると、1979年(昭和54年)の開催案内状には、五十嵐播水の他、小松左京、田辺聖子、小磯良平、奈良本辰也、佐治敬三、朝比奈隆、藤本義一など、各ジャンルを代表する先輩方が、世話人として名を連ねておられる。

今回出席した方は全部で129名。吉本副知事や久元神戸市長も来ておられた。俳句部門では、兵庫県俳句協会の五十嵐哲也顧問ご夫婦、澤井洋子会長、副会長の私の4名だけだった。圧倒的に多かったのが音楽関係と美術関係。私の居たテーブルは、俳句関係4名の他は、筝曲、洋画、建築の専門家であった。皆が「先生」で呼び合い、一種独特の雰囲気を醸し出していた。私は初参加であり、おとなしくしていたが、アルコールの作用も有って皆さん大いに盛り上がり、ステージの上では声楽家がソプラノの高い音を響かせ、イタリア歌曲の次は童謡の「赤とんぼ」と、ごった煮の様相を呈していたが、自分の信じる道にそれぞれが酔っていた。芸術家だけの集まりも良いものである。これからどんな人脈が出来て来るか、楽しみだ。

2015年9月21日月曜日

吟行の成績

昨日は、九年母会の本部吟行が奈良市であり、朝8時過ぎの阪神電車で出かけた。最近では、近鉄電車が阪神の神戸三宮駅まで乗り入れ、近鉄奈良駅まで約90分で運んでくれる。従来はJR大阪駅まで行って、大和路快速に乗り換えるか、近鉄上本町から奈良行きに乗っていたので、随分楽になった。芦屋から乗っても比較的空いており、隅の方で90分間、選をしたり原稿を書いたりできるので助かる。

到着後、私は子規の庭と元興寺を中心に吟行した。昼食の後1時30分締め切りで句会が始まった。披講を聞いていると、子規の庭の句が多かった。逆に、飛火野やその他の名勝を詠んだ句は少なかった。子規の庭が俳枕になって来ているのだろう。柿と子規とを結び付けた句や、子規の療養生活を詠んだ句も多かった。この様な詠み口も悪い事ではないが、私の選ではこの様な句はあまり頂かなかった。逆に、写生に徹しようとする姿勢の伺える句を頂く様に心掛けた。何故か。吟行は写生の修行の場であるからだ。

結果的に、私と同行された作者の句が沢山入選した。意図した訳ではない。上記の方針に沿った選の結果がこうなっただけである。なぜこうなったのか考えてみよう。子規が泊った宿が嘗てここに有った。その宿で有名な、

       柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺      子規

という句が詠まれた。そのゆかりの庭に柿の木がある。とすれば、子規と柿とを結び付けて詠む事は自然の成り行きだろう。しかし、そこに理屈が入っていないか。説明になっていないか。子規だから柿だ、これは理屈以外の何物でもない。しかもすぐにネタ元がばれる詠み方だ。

子規の庭に吟行したから子規を詠まないといけない、柿を詠まないといけない、と思うのは一種の脅迫観念である。皆が詠むから自分も詠まなければと思う、それは集団ヒステリーの様なもの。子規の庭に吟行しても、心が打ち震える感動が無ければ詠まなくていいのだ。

そんなことに拘らず、奈良の秋の風景の一部として子規の庭を捉えることが、真の吟行なのではないだろうか。庭に咲く秋の七草や、秋の色に変わりゆく若草山の姿、秋天に聳える東大寺の大仏殿など、古都奈良の秋を詠む句材は、子規の庭にも沢山有ったはずである。蟋蟀の声が面白ければそれを詠めばよい。理屈・説明・常識・知識、これらを捨て去ったところに詩が生まれ、俳句となるのだ。

      秋日和とは飛火野の空の色      伸一路