2022年11月25日金曜日

作句のポイント

 本誌の10月号に「新・作句のポイント」という一文が掲載されました。これは、東京四季社の「俳句四季」9月号に掲載されて同じタイトルの記事の一部です。副題に「俳句が変わる・選者のひとり言」とあり、同誌の「四季俳壇」を担当している選者63名が持ち回りで担当しているエッセーです。私は近畿地区を担当し、三ヶ月に一度、選者を務めています。

同社編集部から、選者から見た作句のポイントを180字以内で書くように、加えて投句葉書の中から3句を選んで添削例を示すようにとの依頼があり執筆したものです。作者からすれば作句のポイント、選者の立場から言えば選句のポイントを少し説明したいと思います。ポイントは5項目からなっています。

「選句時に気を付けていること

1、有季・定型の原則が守られていること。

2、文字や文法、仮名遣いに誤りがないこと。

3、写生が出来ていること。

4、作者が思いを托そうとする季題の選択が適切であること。

5、詠もうとする感動が本物であること。

平凡なことではあるが、以上の点に注意しながら選者を務めている。」記事は以上です。

先ず1項目目の有季・定型についてですが、有季とは一句に一つ季題を用いること。定型とは、一句を五・七・五の形に纏めることです。九年母会は、結社誌の題字に虚子の直筆を頂き、百年の歴史のある歴とした伝統派の結社です。有季・定型につきましては今更申すまでもありません。しかしこの様な有季・定型の約束を是としない結社や会派もあり、確認が必要です。

 2項目目の文字や文法、仮名遣いにつきましては、少しお話しなければなりません。かつての九年母会では、「俳句に文法は無し」と声高に主張する方が居られ、歴史的仮名遣いや文語文法が、ややないがしろにされて来ました。副主宰に就任して間もない頃、主宰のお供をしてある古い句会に出席したのですが、仮名遣いの間違いの多さに驚きました。口語体と文語体とが混じり合っていたのです。

  しなやかに風にこたえて萩若葉

  苗を買い土買い八十八夜かな

  五月来る野山にはずむ命かな

いずれもその時の選句稿にある句ですが、文語文法としてどこが間違っているでしょう。

 他の結社の俳人達が正しい文法で俳句を詠み発表している中での九年母会のこのような状況に私は強い危機感を覚え、旧六甲道勤労市民センター(現・灘区民センター)や、旧葺合文化センター(統合のため廃止)における俳句講座、及びこれらの講座の卒業生関連の句会では徹底して文語文法に取り組みました。その後主宰に就任してからは、直接訪問する句会や後日選をする句会では、文語文法の正確性に力を注ぎました。そうしなければ、他の結社の俳人の皆さんと同じ土俵で戦えないと思ったからです。

 3項目目の写生の件、俳句は自然の景なり物なり、人の情なりに直接触れて感じた感動を句材とする文芸です。頭の中で捏ねて拵えた句には、どんなに上手に詠まれていても、読者の心を打つ感動がありません。景や物を見たまま句に写し取るのではありません。見た感動を季題と言う仕組みを使って読者に伝えて初めて、俳句と言う文芸が成り立ちます。しっかり対象を見ているか、これを確認させて頂きます。

 4項目目は、作者が読者に伝えようとしている感動に対し、季題が合っているかどうかの点検です。季題だけではなく傍題にまで範囲を広げて、この季題しかないか、という観点から拝見します。

 最後の項目は、作者の感動が本物かどうかの確認です。

  立ち尽くす遅日の富士の暮るるまで

過去の経験を句にされたのでしょうが、どんな光景なのか富士山の様子が見えて来ません。写生が出来ていないので具体性が無く、感動がぼやけています。感動が本物かどうかを見極める、という選は、汀子先生から習いました。口先だけの表現で感動を装うことがあってはいけないと。

 人間のすることですから完璧な俳句など無いでしょうが、それに近づくことは出来ると思います。創造主の御業の美しさに憧れ、それに一歩でも近づきたいと努力する。それが日々の句作だと思っています。(例句は句会の清記より拝借しました)