2016年8月24日水曜日

神の池

先代の主宰が亡くなられ、その奥様が入院されるという事態になり、私の業務がそれこそ爆発的に増加しています。明日は兵庫県警本部の方と、機関誌の俳壇の件で打合せをする予定です。大阪、兵庫の両警察本部に知り合いが出来るのも、俳句の縁と申せましょう。社寺と病院には、俳句を通じた知己が沢山居られますが、警察は初めてのこと。俳縁とは不思議なものです。

さて、先日雑詠の選をしていて、こんな句に出会いました。

     古代蓮咲き揃ひたる神の池

句意は分かり易いのですが、下五の「神の池」の用法に違和感を覚えました。神社の池だから神の池で良いではないか、との反論もあろうかと思いますが、私は無神経で安易な用法だと思います。神の社とは、そこに神が居られる建物です。神の杜と言えば、神が居られる鬱蒼とした森のこと。ならば神の池とは、神が居られる池でしょうか。神の庭という言葉もよく使われます。神が居られる庭のことでしょうか。どちらも神社に在る池であり、神社の庭のこと。そんなところに神様は居られる筈はないのです。この違いを無視して同列に使うのは、言葉の感覚からして如何なものかと思います。

誰かが発明し、使いだした言葉が人口に膾炙し、真似る人が増えたのでしょう。確かに便利な言葉です。神の池だけではなく、お寺の庭を「法(のり)の庭」と詠む人も多い。初めて目にした人は、そのカッコよさに惹かれて、つい使いたくなるのでしょう。しかし私には、お寺の庭がなぜ「法の庭」か分かりません。ならば、お寺の屋根は「法の屋根」でしょうか。お寺の台所は「法の台所」でしょうか。禅寺では、トイレの事を「東司(とうす)」と言い、「法のトイレ」とは言いません。

安直な、流行の言葉に流されることなく、自分の言葉で詩を紡ぐことが大切です。その為には、言葉に対する感性を磨くことが必要だと思います。例えばテレビのニュースを聞きながら、アナウンサーの言葉の使い方に対して「あれっ、変だぞ」と思う。これを続けることにより、言葉の感性は鋭くなります。一度試してみて下さい。