2016年3月31日木曜日

浪速の春

大阪支部創立70周年記念の祝賀会にお招き頂いたので、久し振りに大阪都心部へと出かけた。先日の住吉大社の献詠俳句選者会では、JR大阪駅で環状線に乗り換え、新今宮駅で南海線に乗り換えた。つまり周囲を回っただけだったが、今回は久し振りに大阪駅から御堂筋線の「なんば」まで地下鉄に乗った。

会場は、なんば駅から歩いて10分程。かなり時間の余裕があったので、途中の道頓堀川に下りて、川岸を歩き、浪速の春を探した。嘗て播水先生がそうされたように、じっと佇んで春の気配を探った。先生は、気に入った場所が有ればそこにじっと佇まれた。2時間も同じところに居られたと、聞いたことが有る。

道頓堀川は波もなく穏やかで、春の光を返して煌めいていた。いつものように目を瞑って耳を澄ます。探鳥会で鍛えた聴力を研ぎ澄ます術である。すると、街騒の中から、船の水音が聞えて来た。曳舟が一艘、東の方から近づいて来て、前を通って西の方へ去って行った。艀は曳いてらず、軽いエンジンの音と水音が前を通った時に、こんな句が出来た。

          曳舟の水音とんぼり川のどか     伸一路

余談であるが、大阪人の音感の素晴らしさは、「上本町6丁目」を「うえろく」、谷町9丁目を「たにきゅう」と呼びならわすことにも現れている。道頓堀も「とんぼり」となる。「ロイホ」「スタバ」「ファミマ」「ミスド」などにも音感の良さが感じられる。多分、大阪人の発明した言葉だろう。

道頓堀川のどか、では句が硬くなるので「とんぼり」としてみた。すると「のどか」という季題とうまい具合に響き合う感じがした。但し、「とんぼり川」と言う言葉が読者に分かって貰えるかどうか、再考の余地ありである。

次々とやって来る小船。浪速の春は水音から来るのかも知れない。

2016年3月28日月曜日

九年母誌の随想より①

この記事は九年母誌の昨年7月号に掲載したものである。九年母誌を購読されておられない方の為に、掲載してみようと思う。参考にして頂きたい。

初学の頃(一)                 主宰 小杉伸一路

 新しい主宰がどのように俳句に関わって来たのか、ということに関心を持たれている方も居られるだろうから、私の俳句の原点を少しお話ししてみたい。私が俳句を正式に始めたのは、昭和五十八年のことである。当時私は、太陽神戸銀行(現三井住友銀行)西宮支店の融資係の支店長代理であった。ある日、取引先の建築会社の社長が窓口に来られ、「西宮市役所の人が中心になって新しい句会を作ることになったが、貴方も参加しないか」と声を掛けて下さった。特にその社長と俳句の話をした覚えがないので、何故声を掛けて下さったのか、今もって分からない。しかし、このことが無ければ、今の私は無かったと思う。

 母方の祖父が、大正から昭和の初めにかけて、京都市山科に有った「如月会」という結社に所属する俳人だったことを、しばしば聞かされて育った。その母は永年短歌を嗜み、父も俳句を好んでいたので、自然に俳句に興味を持つようになった。大学を卒業し銀行に就職した後も、朝日や日経などの新聞俳壇にはいつも目を通し、気に入った句をノートに書き留めていた。

 俳句に関する本を初めて買ったのは、昭和五十三年のこと。勤務していた札幌支店の近くの書店で求めた、三谷昭著「現代の俳句」(大和書房)という本で、三十一歳の時だった。毎晩寝る前に、枕元で読むのが楽しみだった。それでもなお自ら句を詠むことはなかった。

先述の社長が誘って下さった句会の設立会が、和歌山県龍神温泉の「上御殿」で開かれ、生まれて初めて俳句を詠んだ。

  山の香の溢るる里や著莪の花  伸一路

碧桜会と名付けられたこの句会の指導者で、九年母同人、西宮俳句協会会長であった古澤碧水先生から、虚子が喜びそうな句だと褒められた。それから約十年間、阪神淡路大震災まで、毎月一回、男性ばかり五人の吟行会に参加した。会員は皆若く、俳句と酒を愛した。私も三十七歳で俳句生活のスタートを切ったのである。