2016年3月28日月曜日

九年母誌の随想より①

この記事は九年母誌の昨年7月号に掲載したものである。九年母誌を購読されておられない方の為に、掲載してみようと思う。参考にして頂きたい。

初学の頃(一)                 主宰 小杉伸一路

 新しい主宰がどのように俳句に関わって来たのか、ということに関心を持たれている方も居られるだろうから、私の俳句の原点を少しお話ししてみたい。私が俳句を正式に始めたのは、昭和五十八年のことである。当時私は、太陽神戸銀行(現三井住友銀行)西宮支店の融資係の支店長代理であった。ある日、取引先の建築会社の社長が窓口に来られ、「西宮市役所の人が中心になって新しい句会を作ることになったが、貴方も参加しないか」と声を掛けて下さった。特にその社長と俳句の話をした覚えがないので、何故声を掛けて下さったのか、今もって分からない。しかし、このことが無ければ、今の私は無かったと思う。

 母方の祖父が、大正から昭和の初めにかけて、京都市山科に有った「如月会」という結社に所属する俳人だったことを、しばしば聞かされて育った。その母は永年短歌を嗜み、父も俳句を好んでいたので、自然に俳句に興味を持つようになった。大学を卒業し銀行に就職した後も、朝日や日経などの新聞俳壇にはいつも目を通し、気に入った句をノートに書き留めていた。

 俳句に関する本を初めて買ったのは、昭和五十三年のこと。勤務していた札幌支店の近くの書店で求めた、三谷昭著「現代の俳句」(大和書房)という本で、三十一歳の時だった。毎晩寝る前に、枕元で読むのが楽しみだった。それでもなお自ら句を詠むことはなかった。

先述の社長が誘って下さった句会の設立会が、和歌山県龍神温泉の「上御殿」で開かれ、生まれて初めて俳句を詠んだ。

  山の香の溢るる里や著莪の花  伸一路

碧桜会と名付けられたこの句会の指導者で、九年母同人、西宮俳句協会会長であった古澤碧水先生から、虚子が喜びそうな句だと褒められた。それから約十年間、阪神淡路大震災まで、毎月一回、男性ばかり五人の吟行会に参加した。会員は皆若く、俳句と酒を愛した。私も三十七歳で俳句生活のスタートを切ったのである。



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