2023年1月1日日曜日

新年のご挨拶

 会員・誌友の皆様、明けましておめでとうございます。皆様にとりまして良き年でありますようにお祈りします。

さて、新型コロナウイルスの世界的流行が起こった当時、日本以外の国ではマスク着用が普及しなかったのですが、我が国ではごく自然に大多数の国民がマスクを受入れました。古来、神仏に直接息がかからないように憚って、紙で口を覆う文化があります。年末の大仏様のお身拭いをイメージすれば分かると思います。衛生観念も発達していて、給食当番の幼い子供でも、抵抗感なくマスクを付けています。マスクをすることは理にかなったことであり、良いことだと納得しているからでしょう。

ところで、日本人は良いことだと思い込んでしまうと、なかなかそこから抜け出せず、徹底的にその思いを守ろうとする特性があるように思います。例えば八紘一宇の理想を掲げて始まった太平洋戦争は、壊滅的な被害を被っても自らの手で終結することが出来ず、逆に敗戦後に公布された憲法を、色々な問題が有るにも拘らず、七十数年間、一条の改正も無く頑なに守り続けている事にも、その特性が現れていると思います。因みに米国では、終戦以来、既に五回の憲法修正が行われています。

「思い込んだら試練の道を行くが男のど根性」とはテレビでも放映された野球アニメ「巨人の星」の主題歌の一節ですが、日本人のこの特性を物語っているようです。「男のど根性」とは、ある種の美学なのでしょう。評論家は、同調圧力だとか村八分になるのが怖いからだとか、マスクが外せない理由を述べていますが、私はこの日本人の特性によるものではないかと思います。

最初の大流行の発生時には効果的な治療薬も無くマスクしか頼るものが無かったこともあり、すっかり馴染んでしまったので、感染が下火になったからと言っても、外すことには逆に抵抗感が生まれているのでしょう。知人の女性の話では、マスクしていると化粧が楽なので助かるとか。納得のゆく説明です。

 政府は普通の風邪と同じ扱いにすべく法案の作成を急ぎ、外出の際はマスクを外すように説得していますが、国民の耳には届いていないようです。インフルエンザの同時流行も懸念されていますので、わが国では簡単にはマスクを手放せないでしょう。政府が、外国への面子のために国民を犠牲にして良い訳が有りません。日本は日本の文化を大切にすればよいのです。ある種の美学かも知れません。

 ところで、私達が日頃親しんでいる俳句という文学は、室町時代の後期に俳諧の連歌という形で庶民の間に生まれました。やんごとなき方々が楽しんでいる連歌を庶民流にアレンジして、面白おかしく詠んで楽しんでいました。俳諧とは駄洒落とか言葉遊びのことであり、その内容は芸術とは言えなかったようです。勅撰和歌集など短歌には素晴らしい歌集がたくさん上梓されているのに対し、俳句は室町時代後期の著名な連歌師である山崎宗鑑が著した『新撰犬筑波集』が有るだけで、書物にして残せないところを考えるとすると、どうも当時の俳諧は庶民の言葉遊びのたぐいで、芸術的ではなかったようです。

 短歌を上の句と下の句に分けて、次々と人を変えて詠み続けて行く文芸を連歌と言い、筑波の道とも言いますが、宗鑑の残した『新撰犬筑波集』の名前には「犬」という字が含まれています。植物の名前でもイヌビエやイヌタデのように、役に立たない植物には犬の字を付けたものがたくさんあります。宗鑑ほどの人が自分の書物のタイトルに「つまらない、役に立たない」という意味を込めているとすれば、当時の俳諧の連歌の芸術性は推して知るべし、です。

 この他愛ない言葉遊びを芸術の域に高めたのが松尾芭蕉でした。その洗練された精神性は多くの支持者、賛同者を得、我が国の短詩形文学の絶頂期を築きました。有季定型という、現代の私たちが拠り所としている俳句の基本中の基本原即もこの頃確立し、芭蕉没後約三百三十年経った今でも、この原則は守り抜かれているのです。近年、この原則を無視して自由律と言う短詩を俳句と称して詠んでいる一部の人達が居りますが、やがて歴史の彼方に消えてゆく事でしょう。俳人や俳句の評価は、永い歴史のフィルターを通して定まるのです。

 これだけ永い間有機定型の原則を頑なに守って来た民族の特性には驚かされます。音楽で言えば、例えば洋楽はクラシック音楽とポピュラー音楽に大別され、更にジャズや歌謡曲など、さまざまなジャンルに分かれます。ところが俳句は川柳という枝が生えて独立した以外は、三百三十年間、変わることなく詠み続けられてきているのです。

 これからも有機定型を堅く守って、日本の、日本人による、日本人のための俳句と言う文芸を続けて行きましょう。