2019年3月3日日曜日

文学としての俳句

今日は桃の節句。汀子邸での下萌句会に出席しました。兼題は「雛」「暖か」「牡丹の芽」の三題でした。いつも俳句は詩であると申しております。この句会にはホトトギス派の関西の歴々が参加されており、詩情豊かな句が投じられました。さすがに、写生のみの、いわゆる「見たまま」という句は皆無で、余情の深い句ばかりでした。

   嫁ぎ来てよりの歳月雛の部屋   伸一路

女性の句だと思われたようですが、汀子選入選の今日の私の句です。自分の身の回りのことや思い出を詠んでいると、どうしても説明的になりがちです。日記ならそれでも良いでしょう。しかし俳句は文学です。感動を描く文学です。文芸作品なのです。俳句を詠むと云うことは創作活動です。指を折りながらの創作活動です。そのためには、主人公や時代設定、場所の設定等も必要で、小説を書くのと同じです。

各務支考著『俳諧十論』の中で芭蕉は「俳諧といふは別の事なし 上手に迀詐(うそ)をつく事なり」と述べています。この迀詐(うそ)とは創作ということです。見え透いた邪悪な嘘では、作者の人格が疑われますが、創作は芸術として許されます。自由自在に感性を羽搏かせ、その感動を五・七・五という定型詩に纏めて読者に読んでいただくのが、私達俳人の仕事だと思います。