2022年7月2日土曜日

伝統的な言葉

 俳句総合雑誌を読むと、伝統俳句を志向する私にはおよそ理解できない句が載っている。どう考えても、何が言いたいのか分からない。私は、誰にでも分かる句であることを作句基準の第一に掲げているから、私の考え方と対極にある作者なのだろう。

一方、伝統俳句的な句を読んでいると、蛍を「ほうたる」、牡丹を「ぼうたん」、蜻蛉を「とんぼう」と読ませている句がある。その他にも、亡母を「はは」、生計を「たつき」、生活を「くらし」と読ませている句もある。

難しい漢字を使って表現することもある。例えば、弁当の事を行厨、野良仕事のことを畑仕というようなものである。こんな例はまだまだある。

このような、俳句を詠むためだけの言葉や、現代の日常生活で使われていない特殊な言葉を、果たして使い続けて良いものだろうか。行厨と言わなくても弁当で分かるのではないだろうか。コンビニとかスマホという言葉が俳句に普通に登場する時代に、このような言葉を使い続けていることに、どんな価値が有るのだろう。吟行に出掛ける時に「今日の行厨どうする?」と言うだろうか。こんな言葉を知っているのだという自己満足に過ぎないのではないだろうか。

もちろん、歴史のある言葉であり、使ってはならないということではない。要は作品次第ではあるが、言葉は時代と共に変化してゆくもの。古い言葉に拘っていると若い作家の成長を阻害することにもなりかねない。作句に当たっては、播水の提唱された「旧陋に堕さず 新奇に媚びず」という言葉を思い出していただきたい。誰が読んでも分かるような、時代に合った適切な言葉を選び、日々新しい俳句の文化を着実に開拓して行きたいと念じている。