2022年6月4日土曜日

清記は教科書

  句会の参加者が投句した小短冊を規定の数だけ各参加者に配り、参加者がこれを所定の用紙に清書する。これが清記であり、参加者は順次回覧して選をする。ところが回覧の様子を見ていると、清記を一瞥して気に入った句だけを抜き書き、早々に隣に回す人がある。せっかく書かれた貴重な資料を、このように雑に扱ってよい物だろうか。

清記は、各参加者が精魂込めて作句した作品を拝見する、又とない機会である。自分には詠めなかった季題を立派に使った句もある。思いもよらない発想の句もある。俳句の勉強材料に活かさない手はない。使い方、活かし方によっては、清記は立派な教科書になるのである。

ところで、先日の句会で回覧された清記に、「筍を掘る」が「筍を堀る」と書いたものが有った。私の出した筍を詠んだ句が二句とも「掘る」が「堀る」と清記されていた。土を掘ったのがお堀りであり、手偏と土偏との間違いだ。

これでは作者のせっかくの努力が水の泡になり、作者にも一座の参加者にも迷惑を掛けることになる。清記を書く責任は重大である。小短冊の句を、誤字は誤字のまま、そのまま正確に書くことだ。一切手を加えてはならない。

心を込めて丁寧に書かれた清記を教科書にして先輩方の句を味わい、着想や季題の使い方、句の叙し方などを学びたいものである。