2015年11月6日金曜日

時の流れ

たまたまある外部の方から、九年母会の嘗ての会員についての調査依頼があったので、手元に有る昭和63年1月号の九年母誌を開いてみた。播水先生の雑詠選欄には懐かしいお名前が並んでいる。この号の巻頭は大内君子さんである。当時の会員は約3000名。投句者の数は知れないが、4句入選者は21名と、信じられない程の厳選である。当時は全没もかなりあった筈で、私は初投句から初入選まで半年を要した。

投句者の半数が1句入選と言われていた時代である。1500名近い方が1句なのだ。私の雑詠選の1句欄とは雲泥の差がある。当時は「万年1句」という言葉があり、一度も2句欄に昇れない方が相当有ったそうである。播水先生も、「万年1句から脱出するにはどうすれば良いか」という随筆を書かれているくらいだ。これだけの厳選でも会員が減るどころか、増え続けたのである。

雑詠欄をめくって行くと、当たり前の事であるが、鬼籍に入られた方がたくさんおられた。若い時分にお世話になった方のお名前が4句欄や3句欄の上位に並んでいる。私を九年母に誘って頂いた方や、句会でお世話になった皆さん。諸般の事情で辞められた方々。お顔が1人1人思い出され、懐かしい思いがした。

私の句は1句欄の末席に有った。

       稲稔り戦没兵士の墓並ぶ   神戸  小杉伸一路

これが私の28年前の句である。故郷の農村の墓地の風景を描いたのだが、「稲稔り」という季題が効いておらず、見ただけの単なる写生句である。戦没兵士に対して、どんな思いを表明しようとしたのか。感謝の念か鎮魂の念か。それが「稲稔る」という季題を通じて伝わって来ないのである。これだけの稲が稔ったのも、戦陣に散られた皆さんの尊い犠牲があったからです、と解すると理屈の句になる。俳句には理屈は不要である。今の私だったら上五を「秋桜」とする。

今を時めいておられる方も、この頃は1〜2句欄である。俳句修行の遥かな道のりを実感した次第である。