2016年2月26日金曜日

一人称の文芸

俳句は一人称の文芸であると言われる。俳句の詠み方の原則は「いま・ここ・われ」であるとお話ししているが、俳句は「われ」の文芸なのである。ある句会で次の句が出された。

      口笛で真似る鶯登校児

この句は、登校児が口笛で鶯の鳴き声を真似ている、という情景を句にしたものである。句の意味は分かるが、作者は唯見ているだけである。情景の説明をしているだけの句である。それでどうしたのか、その情景を見てどう思ったのか、という肝心なところが描けていない。

確かに季節感は出ている。しかし季節感と写生だけで俳句が詠めたと思うのは、早計である。鶯が鳴いている。作者は、一つ真似してやろう、と思った。口笛で鳴き声を真似てみた。ここで初めて作者が登場する。一句の中に作者の役割が生まれた瞬間である。読者はこの句を読んで、面白い事をする人だ、愉快な人だと思うかもしれない。また、自分もやってみようと思う人があるかも知れない。この結果、一句を通じて、作者と読者との心の交流が生まれ、俳句となるのである。

口笛を吹いているのが児童のこととなると、他人事となる。われの事ではないのである。他人の事では、読者に与える印象が弱くなる。俳句は「われ」の文芸。われが何をして、何を見、何を聞いてどう思ったか。読者と感動を共有するためには、われを描くことである。

     傘を持つ持たずの思案春時雨       伸一路

2016年2月22日月曜日

師匠を持つ幸せ

私には西田浩洋という師匠がある。九年母編集部の杉山千恵子さんと、正式には4月から編集部の一員となられる柏原憲治さんとご一緒に、播磨町から神戸市に転居されて以来初めて、先生のご自宅を訪問した。要件はお二人の紹介と、九年母賞選考委員就任の依頼である。

先生との出会いは、平成9年5月に開催された三木の伽耶院での、初凪句会の吟行会に於いてであった。私はその時49歳で、俳句の年齢で言えば若者であった。当時、初凪句会の世話をしておられた故渡辺さち子さんが、欠員の補充の為、九年母の雑詠欄から私を見出され、選者をしておられた浩洋先生に連絡されたのがきっかけだ。先生から二つ返事でのご了解を得て、初めて参加したのがこの吟行会であった。

当日の私の出達は、帽子から靴まで完璧な日本野鳥の会の探鳥スタイルだった。大型の双眼鏡とフィールドスコープと呼ぶ望遠鏡を格納したリュックに三脚を縛り付け、腰のポーチには野鳥の会の教科書である分厚い「フィールドガイド」が収まっていた。胸には兵庫県支部のバッジ。登山帽、ベスト、軽登山靴と、凡そ俳句の吟行とは思われない姿に、初凪句会の皆さんが目を丸くされたのを、昨日のことのように思い出す。オオルリやコゲラなどが出て、楽しい吟行になった。

句会終了後、先生に呼ばれ、リュックの中身を全部説明するように命じられた。この双眼鏡はニコンのエスパシオと言い、10倍の倍率があります、等と細かく説明した。この吟行会での思い出を、先生は「鳥博士」という随筆に纏められ、九年母誌に掲載された。素晴らしい名文であった。

それ以来、汀子先生の門を叩いた平成18年まで、先生には厳しくて温かいご指導を頂いた。六甲道の講座は先生のお世話によるものであり、五葉句会や葺合文化センターの講座は先生の後任である。もしこれらの講座を担当していなければ、今の九年母は無かった。先生のご指導については、稿を改めてお話ししたい。私の師匠は西田浩洋、と胸を張って言える幸せを思わない日は無い。