2015年12月5日土曜日

自己満足の句

先日の句会で、次の句が投じられた。

       やつと来し古城の道の落葉踏む

この句の作者は、ある城を是非訪うてみたいと長い間希望して来たが、この度ようやく念願がかなって訪問することができた。落葉を踏みながら、城の歴史に思い巡らせる作者であった。めでたしめでたし、となるかどうか。読者の中には作者に同情する方も有るだろう。行けて良かったね、と。

しかし冷静に考えてみると、この句の中に使われている季題は「落葉」であり、城の落葉を踏みながら、城に纏わる歴史に思いを致せばよいのであって、やっと来たかどうかは、読者にはどうでもよい事ではないだろうか。

この句のように、作者には大切な事であっても、作品としては必要が無い言葉がしばしば混ざることがある。別の句会で、次の句が出された。

       母と我落葉掃きつつ老ひにけり

読者としてはそうですかとしか言いようがなく、同情はするが、どうしてあげようもない句である。主観の強い句といってしまえばそれまでであるが、後味の悪さだけが残ってしまう。

この様な、自分にだけわかる句は句帳に留めておき、外部には発表しないという姿勢が大切である。句の出来・不出来は別として、少なくとも人様のお目に掛けられる句かどうか、つまり発表できる句かどうかの判断は自分でしないといけない。これは俳句作家としてのマナーであると思う。

俳句は楽しく・明るく・大らかに詠みたいものである。

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