2015年12月16日水曜日

詩としての俳句

先日の読売新聞の「俳句あれこれ」の欄に、同紙の全国俳壇の選者である矢島渚男先生のエッセーが掲載されていた。題は「思いを籠める」というものであった。その文章を読んで大いに意を強くしたのである。一部を抜き出してみよう。

「(前略) ところで五七五と季語があれば俳句だと思っている人もおられますが、俳句も詩なのですから、そこに籠められた作者の心がなければ俳句ではありません。 (中略) 自然を詠っても人事を詠っても、おのずからその人の思いが感じられることが大切。私たちは性格も境遇も生活環境もそれぞれに違いますが、特殊性の中にある真実な心こそが普遍的な共感を呼ぶのだと思います。(後略)」

いつも申し上げている通りだが、この一文にも俳句は詩だ、と書いてある。加えて、詩の中に有る真実な心が普遍的な共感を呼ぶのだと。逆に言うと、真実の心が感じられない、単なる写生の句は詩ではなく、詩ではない五七五は俳句ではない、という事になる。

俳句は見たままを詠むものと教わり、それをひたすら守って来られた方も多い。しかし単なる写生だけの句は俳句ではないのだ。虚子もかつて客観写生という俳句理念を提唱されたが、やがて草の芽俳句と呼ばれる極端な詠み方が流行し副作用が見られるようになったので、それに代わる俳句理念である花鳥諷詠を提唱されたのである。

九年母会では、今でも写生派が主流である。しかし、徐々にではあるが客観写生から花鳥諷詠という詠み方に移行する方が増えて来ている。花鳥諷詠とは、俳句は詩であり温かい血の通った詠み方をしようという主張だと、私は解している。

私は主宰就任の挨拶の中で、花鳥諷詠の道を学び直そう、と呼び掛けた。写生派の皆さんは俳句は詩である事を理解するべきだと、痛切に思っている。

       入選といふボーナスを賜りし     伸一路

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