復本一郎著『俳人名言集』(朝日新聞社刊)に「俳諧は殊に相手わざなれば」という芭蕉の言葉が記されている。同書に依ればこの言葉は、元禄時代に刊行された加賀の俳人「宇中」という人の著『夜話くるひ』に芭蕉の言葉として載っているという。
相手わざとは、読者が共感してくれて初めて作品となるということ。他の文芸もそうだが、俳諧は殊にそうなのだと、芭蕉は述べておられる。作者が詠んだ句を読者が鑑賞し、感動を共有してくれて(共感してくれて)初めて作品になるというのである。従って、読者の存在を意識しないで詠まれた俳句は、作品ではない、ということだ。単なる独り言であり、日記の類のものなのだ。
先日、兵庫県民共済の会誌「かけはしひろば」を読んでいたら、古民家や古い寺社を修復されている棟梁(現代の名工)の記事が載っていた。その記事の中で、「『ものづくり』をする人は、使ってくれる人を常に思いうかべながら、惜しむことなく時間も労力も愛情もそそいでいることを改めて知りました」という記者の感想が述べられていた。
私達が俳句を詠む際には、読者が有るということを常に自覚しなければならない。使い手を意識するというこの名工と同じなのだ。そのことを、遥か元禄時代に芭蕉翁は看破されていた。形を取り繕っただけの、独り善がりの句を詠む昨今の風潮を、翁はどの様にご覧になるだろう。
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