ある俳壇の選をしていたら、こんな句が有りました。
① 朝露を浴びて目覚めし蝸牛
② かたつむり幼き日々や走馬灯
③ 夕立の残せし虹に癒さるる
④ 夕立を知らす蛙の大合唱
作品の出来・不出来は別として、どの句も季重なりです。①の句では露と蝸牛、②の句ではかたつむりと走馬灯、③の句では夕立と虹、④の句では夕立と蛙と、どの句にも二つずつ季題が入っています。季重なりは、感動の焦点が分散するので避けた方が良い、とされます。避けた方が良いのであって、季重なりが法律に触れる訳では有りません。江戸時代の作品で人口に膾炙されている次の句は、季重なりで有名です。
目には青葉山時鳥初鰹 素堂
①の句では、蝸牛が主で、その説明に朝露が使われています。②の句では、幼い日々の記憶が走馬灯のように過る、と詠んでいるので、走馬灯は説明の材料であり蝸牛が主です。③の句では、夕立という兼題であるのに、虹に癒されたと、虹が主としての働きをしています。④の句は蛙の大合唱を詠んだ句で、夕立は材料に使われているだけです。この様に見て来ると、季題が二つ入っているから季重なりだ、とは決めつけられないことが分かります。
先日のある句会で、私は敢えて季題が二つある句を、自信を持って巻頭に推しました。例え季重なりを指摘されても、反論する自信が有りました。ある程度修練を積んでこられると、季重なりにしないとどうしても句にならないという事を経験します。この様な場合は、季重なりと言う批判を受けても動じないだけの判断と自信を持って、季重なりにします。作品としての完成度を高めるためには、やむを得ないと判断した時に限って、敢えて季重なりにするのです。
季重なりで良く無いのは、季重なりになっていることすら気付かずに詠んでしまう事です。この場合は、指摘されて気が付きます。従って、初心の頃は季重なりを避けるように教えられます。十分に修練を積まれたら、思い切って季重なりにすることも、作品の為には必要な事です。
2016年9月17日土曜日
2016年8月31日水曜日
「や」止めの句
今月の紀伊俳壇の投句の中に、次の様な句が有りました。
人の子を蹴散らし去った夕立や
先日選が終わったばかりの住吉大社観月祭献詠俳句の中にも、この様な「や」が散見されました。ある俳壇の投句には、この「や止め」の句が10句もありました。下五の最後に詠嘆を示す「や」を置く「や止め」は、ある程度俳句を学んだ方であれば、異常な止め方だと思われる筈です。
喜ぶべきことか、はた悲しむべきことか。私は喜ぶべきことだと思っています。九年母会で俳句を学んでおられる皆さんは、この様な「や」止めの句はお詠みにならないでしょう。しかし、初心の頃には、お詠みになったことが有ると思います。「や」で止めると何となく俳句らしくなると思う、初心者に多い詠み口と言えるでしょう。
黒きしみつとあり五郎兵衛柿とかや 虚子
虚子にもこの様な「や止め」の句が有りますが、上記の俳壇の句の様な詠嘆では無く疑問の「や」で、五郎兵衛柿と言うのだろうか、と言う場合の「や」です。
黒きしみつとあり五郎兵衛柿とかや 虚子
虚子にもこの様な「や止め」の句が有りますが、上記の俳壇の句の様な詠嘆では無く疑問の「や」で、五郎兵衛柿と言うのだろうか、と言う場合の「や」です。
団塊の世代の方が定年を迎えられ、シルバーカレッジやカルチャーセンターが大変賑わっているようです。講座を担当する者の実感として、確かに俳句の習得を希望される方が着実に増えています。特に、60歳台後半から70歳台前半の方の受講希望が増えているように思います。加えて、ある民報のテレビの番組の、俳句の出来・不出来を辛辣に批評・格付けする女流俳人の活躍のお蔭で、俳句に興味を持つ方が増えているようにも思います。
従って、この様な「や止め」と言う、通常は使わない止め方が目に付くようになったことは、それだけ初心者が増えて来ていることの証しかも知れません。そうであれば、大変うれしいことで、「や止め」の句が益々増えることを、期待したいものです。俳句の修行を積まれ、やがて気付かれる日が来るでしょうから。
2016年8月24日水曜日
神の池
先代の主宰が亡くなられ、その奥様が入院されるという事態になり、私の業務がそれこそ爆発的に増加しています。明日は兵庫県警本部の方と、機関誌の俳壇の件で打合せをする予定です。大阪、兵庫の両警察本部に知り合いが出来るのも、俳句の縁と申せましょう。社寺と病院には、俳句を通じた知己が沢山居られますが、警察は初めてのこと。俳縁とは不思議なものです。
さて、先日雑詠の選をしていて、こんな句に出会いました。
古代蓮咲き揃ひたる神の池
句意は分かり易いのですが、下五の「神の池」の用法に違和感を覚えました。神社の池だから神の池で良いではないか、との反論もあろうかと思いますが、私は無神経で安易な用法だと思います。神の社とは、そこに神が居られる建物です。神の杜と言えば、神が居られる鬱蒼とした森のこと。ならば神の池とは、神が居られる池でしょうか。神の庭という言葉もよく使われます。神が居られる庭のことでしょうか。どちらも神社に在る池であり、神社の庭のこと。そんなところに神様は居られる筈はないのです。この違いを無視して同列に使うのは、言葉の感覚からして如何なものかと思います。
誰かが発明し、使いだした言葉が人口に膾炙し、真似る人が増えたのでしょう。確かに便利な言葉です。神の池だけではなく、お寺の庭を「法(のり)の庭」と詠む人も多い。初めて目にした人は、そのカッコよさに惹かれて、つい使いたくなるのでしょう。しかし私には、お寺の庭がなぜ「法の庭」か分かりません。ならば、お寺の屋根は「法の屋根」でしょうか。お寺の台所は「法の台所」でしょうか。禅寺では、トイレの事を「東司(とうす)」と言い、「法のトイレ」とは言いません。
安直な、流行の言葉に流されることなく、自分の言葉で詩を紡ぐことが大切です。その為には、言葉に対する感性を磨くことが必要だと思います。例えばテレビのニュースを聞きながら、アナウンサーの言葉の使い方に対して「あれっ、変だぞ」と思う。これを続けることにより、言葉の感性は鋭くなります。一度試してみて下さい。
さて、先日雑詠の選をしていて、こんな句に出会いました。
古代蓮咲き揃ひたる神の池
句意は分かり易いのですが、下五の「神の池」の用法に違和感を覚えました。神社の池だから神の池で良いではないか、との反論もあろうかと思いますが、私は無神経で安易な用法だと思います。神の社とは、そこに神が居られる建物です。神の杜と言えば、神が居られる鬱蒼とした森のこと。ならば神の池とは、神が居られる池でしょうか。神の庭という言葉もよく使われます。神が居られる庭のことでしょうか。どちらも神社に在る池であり、神社の庭のこと。そんなところに神様は居られる筈はないのです。この違いを無視して同列に使うのは、言葉の感覚からして如何なものかと思います。
誰かが発明し、使いだした言葉が人口に膾炙し、真似る人が増えたのでしょう。確かに便利な言葉です。神の池だけではなく、お寺の庭を「法(のり)の庭」と詠む人も多い。初めて目にした人は、そのカッコよさに惹かれて、つい使いたくなるのでしょう。しかし私には、お寺の庭がなぜ「法の庭」か分かりません。ならば、お寺の屋根は「法の屋根」でしょうか。お寺の台所は「法の台所」でしょうか。禅寺では、トイレの事を「東司(とうす)」と言い、「法のトイレ」とは言いません。
安直な、流行の言葉に流されることなく、自分の言葉で詩を紡ぐことが大切です。その為には、言葉に対する感性を磨くことが必要だと思います。例えばテレビのニュースを聞きながら、アナウンサーの言葉の使い方に対して「あれっ、変だぞ」と思う。これを続けることにより、言葉の感性は鋭くなります。一度試してみて下さい。
2016年8月7日日曜日
一致率指数
今日は汀子先生宅で、下萌句会が有りました。毎月1回勉強に行かせて頂き、来月で10年になります。最初に参加した日は要領が分からず、部屋の隅っこに立って、頭を下げてばかりいました。先生に席を決めて頂き、以来同じ席に座り続けています。大半の方がそのころから在籍しておられるので、高齢化も進んできました。私を含め猪年が3人おりますが、いつまで経っても最年少のままです。
さて、今日の成績は5句出句で、汀子選入選が1つと特選が1つ。先月は5句全部入選、その前の月は3句入選でしたから、特選を頂くのは久し振りです。それはどうでもよいのですが、一致率指数が85.2と近年に無い高率となったことが、最大の収穫でした。
一致率指数とは私が勝手に考案したもので、指導の適否が問題になるかも知れませんが、一つの参考にはなるのではないかと思います。下萌会の場合で言いますと、私は今日の句会で27句を予選に採りました。その後汀子先生がご自分の選を披講されましたが、その際に、私の選と一致する句に○を付けて行きました。その結果、汀子先生の句が3句と他の方の句が20句、合計23句に〇が付きました。
一致した句数23を私の余選の数27で割って100を掛けると85.2となります。私の直近の一年間成績を見てみると、次の通りです。
27年 9月 60.0 3月 69.2
11月 84.0 5月 79.3
12月 82.6 6月 69.6
28年 1月 67.9 7月 76.9
2月 74.1 8月 85.2 平均 74.9
こうして毎年の平均値を算出します。この数値の動向によって選句力の向上度合いを測り、勉強の方法を考えるのです。年々向上して来れば選句力が付いて来たと判断します。但しこれはあくまでも勉強の一環であり、先生の選句が全て正しい訳でもありません。しかし、勉強の過程で、自分の選句力がどの程度向上したかをチェックする方法としては有効だと思っています。
さて、今日の成績は5句出句で、汀子選入選が1つと特選が1つ。先月は5句全部入選、その前の月は3句入選でしたから、特選を頂くのは久し振りです。それはどうでもよいのですが、一致率指数が85.2と近年に無い高率となったことが、最大の収穫でした。
一致率指数とは私が勝手に考案したもので、指導の適否が問題になるかも知れませんが、一つの参考にはなるのではないかと思います。下萌会の場合で言いますと、私は今日の句会で27句を予選に採りました。その後汀子先生がご自分の選を披講されましたが、その際に、私の選と一致する句に○を付けて行きました。その結果、汀子先生の句が3句と他の方の句が20句、合計23句に〇が付きました。
一致した句数23を私の余選の数27で割って100を掛けると85.2となります。私の直近の一年間成績を見てみると、次の通りです。
27年 9月 60.0 3月 69.2
11月 84.0 5月 79.3
12月 82.6 6月 69.6
28年 1月 67.9 7月 76.9
2月 74.1 8月 85.2 平均 74.9
こうして毎年の平均値を算出します。この数値の動向によって選句力の向上度合いを測り、勉強の方法を考えるのです。年々向上して来れば選句力が付いて来たと判断します。但しこれはあくまでも勉強の一環であり、先生の選句が全て正しい訳でもありません。しかし、勉強の過程で、自分の選句力がどの程度向上したかをチェックする方法としては有効だと思っています。
2016年7月20日水曜日
哲也先生の教え
哲也先生の後を継いで、大阪府警本部の機関誌「なにわ」の俳壇の選を担当することになった事については、以前このブログでも報告しました。担当して第一号となる九月号の原稿を、本日府警本部宛てに送付しました。月刊発行部数が二万五百部というのも驚きまです。この機関誌に「なにわ文芸」という文芸欄が設けられ、現職警察官やOBの方、またそのご家族の方の俳句、短歌そして川柳を発表する場となっています。
その4月号の俳句の欄に、哲也先生最後の選評が掲載されています。「選後に」と題する一文を転載させて頂きます。
「俳句は季語を詠み込む十七音の短い文芸です。季題をよく勉強することが俳句上達の近道であり、本道でもあり大切です。(以下略)」
これが恐らく先生が遺された最後のお教えだと思います。先生の後を継いで選者として参加している句会が幾つかありますが、もう何年も俳句を習っているのに、未だに季語と季題の区別がつかない方が居られます。今まで先生のお教えを何と聞いて来られたのか。
虚子もその著『虚子俳話』の中で、俳句は季題を最もよく活用したものである事を要する、と述べておられます。そして「俳句には季題といふものがある。その季題の有してをるあらゆる性質、あらゆる連想、それ等のものを研究し、これを(俳句を詠もうとする=著者注)その情熱の中に溶け込まして、その思想と季題とが一つになって、十七字の正しい格調を備へて詩となる。それが俳句なのである。唯の詩でない。俳句といふ詩なのである。(後略)」と説いておられるのです。
哲也先生も、上述した通り、季題を良く勉強することが、俳句の勉強の本道である、と教えておられます。先生がホトトギスの翼の下で俳句を詠み続ける、と仰ったのも同じことなのです。花鳥諷詠が先生の俳句理念であったことに、いささかの疑問もありません。季題を良く勉強せよとのご遺訓を、私達九年母会の会員は胸に刻み込まなければなりません。
その4月号の俳句の欄に、哲也先生最後の選評が掲載されています。「選後に」と題する一文を転載させて頂きます。
「俳句は季語を詠み込む十七音の短い文芸です。季題をよく勉強することが俳句上達の近道であり、本道でもあり大切です。(以下略)」
これが恐らく先生が遺された最後のお教えだと思います。先生の後を継いで選者として参加している句会が幾つかありますが、もう何年も俳句を習っているのに、未だに季語と季題の区別がつかない方が居られます。今まで先生のお教えを何と聞いて来られたのか。
虚子もその著『虚子俳話』の中で、俳句は季題を最もよく活用したものである事を要する、と述べておられます。そして「俳句には季題といふものがある。その季題の有してをるあらゆる性質、あらゆる連想、それ等のものを研究し、これを(俳句を詠もうとする=著者注)その情熱の中に溶け込まして、その思想と季題とが一つになって、十七字の正しい格調を備へて詩となる。それが俳句なのである。唯の詩でない。俳句といふ詩なのである。(後略)」と説いておられるのです。
哲也先生も、上述した通り、季題を良く勉強することが、俳句の勉強の本道である、と教えておられます。先生がホトトギスの翼の下で俳句を詠み続ける、と仰ったのも同じことなのです。花鳥諷詠が先生の俳句理念であったことに、いささかの疑問もありません。季題を良く勉強せよとのご遺訓を、私達九年母会の会員は胸に刻み込まなければなりません。
2016年7月4日月曜日
ルマン24
「伝統の自動車耐久レース、第84回ルマン24時間は18日から19日にかけて、フランス西部ルマンのサルテ・サーキットで決勝が行われ、トップを走行していた中嶋一貴選手のトヨタ5号車が24時間まで残り約3分でマシントラブルのため失速し、初の総合優勝を逃した。ポルシェが2年連続18度目の優勝を果たした。」これは読売新聞に掲載された記事です。
トヨタは日本のメーカーとしては1991年のマツダ以来25年ぶり2度目の、トヨタとしては初めての優勝を目前にして、エンジンが止まってしまったのです。残り約3分を走り続ければ優勝できたのです。トヨタチームにとっては何が起こったのか、信じられない事だったと思います。
後日の読売新聞にトヨタの広告が掲載されました。タイトルは「まだ何かが、足りない。」とあり、「『敗者のままでいいのか』、あえてプレッシャーをかけ、悔しさを跳ね除ける戦いを続けてきた。全員が、力を尽くし。改善を重ね、『もっといいクルマ』となって戻ってきたル・マン。悲願達成・・・と、誰もが、その一瞬を見守る中、目の前にあったのは、信じがたい光景だった。(以下略)」と悔しさが滲む内容でした。
思えば恐ろしいことです。100%間違いがないと思っていたことが、直前になって齟齬を来たすのです。しかしあり得ない事では有りません。世の中に絶対という事は有りえないのです。嘗て、ある俳句協会賞の最優秀賞に決定した作品の句数が、規定の30句に1句足りないことが判明したことが有りました。この他、送り仮名が1字間違っていたため、最優秀作品が失格となったこともありました。
いずれも、ほんの一寸した油断が原因なのでしょう。人間のすることですから、完璧というものは有り得ません。そこに一人でする仕事の限界が有ります。必ず複数の人が目を変えて確認することの大切さを、銀行員時代に先輩から叩き込まれました。札束の計算は、先ず束を縦に数える縦読みをし、次に扇形に開いて横読みをします。更に紙幣計算機に、上下逆にして二度掛けてやっと一束の計算が終わります。手から手へ渡す時には、もう一度札束を計算機にかけて、お互いに納得してから授受します。これだけしていても、束の数え間違いなど、違算は起こるのです。
諺にも「九仞の功を一簣に欠く」といいます。「人事を尽くして天命を待つ」という諺もありますが、どんな仕事でも、勿論俳句の世界でも、この慎重さは大切だと思います。
トヨタは日本のメーカーとしては1991年のマツダ以来25年ぶり2度目の、トヨタとしては初めての優勝を目前にして、エンジンが止まってしまったのです。残り約3分を走り続ければ優勝できたのです。トヨタチームにとっては何が起こったのか、信じられない事だったと思います。
後日の読売新聞にトヨタの広告が掲載されました。タイトルは「まだ何かが、足りない。」とあり、「『敗者のままでいいのか』、あえてプレッシャーをかけ、悔しさを跳ね除ける戦いを続けてきた。全員が、力を尽くし。改善を重ね、『もっといいクルマ』となって戻ってきたル・マン。悲願達成・・・と、誰もが、その一瞬を見守る中、目の前にあったのは、信じがたい光景だった。(以下略)」と悔しさが滲む内容でした。
思えば恐ろしいことです。100%間違いがないと思っていたことが、直前になって齟齬を来たすのです。しかしあり得ない事では有りません。世の中に絶対という事は有りえないのです。嘗て、ある俳句協会賞の最優秀賞に決定した作品の句数が、規定の30句に1句足りないことが判明したことが有りました。この他、送り仮名が1字間違っていたため、最優秀作品が失格となったこともありました。
いずれも、ほんの一寸した油断が原因なのでしょう。人間のすることですから、完璧というものは有り得ません。そこに一人でする仕事の限界が有ります。必ず複数の人が目を変えて確認することの大切さを、銀行員時代に先輩から叩き込まれました。札束の計算は、先ず束を縦に数える縦読みをし、次に扇形に開いて横読みをします。更に紙幣計算機に、上下逆にして二度掛けてやっと一束の計算が終わります。手から手へ渡す時には、もう一度札束を計算機にかけて、お互いに納得してから授受します。これだけしていても、束の数え間違いなど、違算は起こるのです。
諺にも「九仞の功を一簣に欠く」といいます。「人事を尽くして天命を待つ」という諺もありますが、どんな仕事でも、勿論俳句の世界でも、この慎重さは大切だと思います。
2016年6月18日土曜日
右脳と左脳
人間の大脳は右脳と左脳とに別かれます。右半分と左半分という事です。広辞苑に依りますと、右脳は空間的・音楽的認知を司っているとされ、逆に左脳は言語的・分析的・逐次的情報処理を司っている、とあります。つまり、職場で情報を分析したり、事務を処理したりする知的な仕事は左脳が、音楽を聞いたり、作曲したり、詩を書いたり、絵画を鑑賞するという情緒的な仕事は右脳が担当しているのです。
では、俳句を詠むときにはどちらの脳が働いているのでしょうか。虚子はその著『虚子俳話』の中で、「季題の有してをるあらゆる性質、あらゆる連想、それ等のものを研究し、これをその情熱の中に溶け込まして、その思想とその季題とが一つになって、十七字の正しい格調を備へて詩となる。唯の詩でない。俳句といふ詩なのである。」と述べています。この文章の内容からすると、俳句は右脳で詠むと言えます。
句材をしっかり観察するのは情報の処理、つまり左脳の仕事です。選評の際に、説明的と評される句は左脳の産物。これに対して余情・余韻の深い句、と評される句は右脳の産物、という事が出来ます。播水は、心を澄まして対象が語るのを待て、と述べておられます。まさに右脳の働きです。
詩が右脳で詠むものであれば、詩である俳句も右脳で詠むべきです。見たままを五七五の句にしても、それは単なる句であって俳句では無いのです。知で詠まず情で詠む、そのために私は、季題を情で理解するようにしています。楽しいものか、悲しいものか、嬉しいものか、寂しいものか、という基準で季題を考えます。こうして季題の本意を掴みます。
俳句を構成する言葉を適格に選ぶのは左脳の仕事ですが、季題の本意に基づいて、詩情豊かに言葉を配列するのは右脳の仕事、と言えるでしょう。
では、俳句を詠むときにはどちらの脳が働いているのでしょうか。虚子はその著『虚子俳話』の中で、「季題の有してをるあらゆる性質、あらゆる連想、それ等のものを研究し、これをその情熱の中に溶け込まして、その思想とその季題とが一つになって、十七字の正しい格調を備へて詩となる。唯の詩でない。俳句といふ詩なのである。」と述べています。この文章の内容からすると、俳句は右脳で詠むと言えます。
句材をしっかり観察するのは情報の処理、つまり左脳の仕事です。選評の際に、説明的と評される句は左脳の産物。これに対して余情・余韻の深い句、と評される句は右脳の産物、という事が出来ます。播水は、心を澄まして対象が語るのを待て、と述べておられます。まさに右脳の働きです。
詩が右脳で詠むものであれば、詩である俳句も右脳で詠むべきです。見たままを五七五の句にしても、それは単なる句であって俳句では無いのです。知で詠まず情で詠む、そのために私は、季題を情で理解するようにしています。楽しいものか、悲しいものか、嬉しいものか、寂しいものか、という基準で季題を考えます。こうして季題の本意を掴みます。
俳句を構成する言葉を適格に選ぶのは左脳の仕事ですが、季題の本意に基づいて、詩情豊かに言葉を配列するのは右脳の仕事、と言えるでしょう。
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