2015年10月24日土曜日

心境の変化

有る日の句会の後、句帳を見せに来られた方が有った。曰く「こんな句、先生に見てもらうのが恥ずかしいのですが」と。恥ずかしかったら、見せなければよい。しかし、本当は見て貰いたいから持って来られるのである。

もう何年も前の事だが、六甲道勤労市民センターの初心者講座を開設して間もない頃、入門したばかりの方が「講座で先生の厳しいコメントを聴いていると快感を覚える」と言われたことが有った。私は、この人は伸びると思った。案の定、その後順調に実力を付けられ、今では汀子先生から直接教えを受けるまでになられた。

先生に句を見せるのが恥ずかしい、これを羞恥心という。この羞恥心を乗り越える、克服するという心境の変化、これが俳句入門の第一歩である。克服するのである。羞恥心を捨てるのではない。羞恥心を秘めながら、それに打ち勝つ強い気持ちを持つのである。

先日の香住吟行では、それまで私と話をしたことが無い方が、思い切って質問をされた。またある方は、全国的なコンテストに参加してみようと決意された。摩耶山俳句大会に行ってみようと決心された方も有る。皆さんそれぞれに一歩を踏み出されたのだ。これが心境の変化である。

その昔、芭蕉が「俳諧は三尺の童にさせよ」と仰ったと三冊子という書物にある。三尺の童ならば4歳くらいか。このくらいの童には未だ羞恥心が無い。まだ、風呂上りには裸で走り回っている。芭蕉は、この純真無垢な童が俳句を詠むように、自分たちも俳句を詠め、と諭されたのだ。

俳句は心境の変化を重ねるにつれて深まって来る。若い人たちは感性の赴くままに詠むが、人生経験を積み俳句の修行を重ねるに従って、句の深みが増してくる。俳句の心境を句境という。花鳥諷詠という目標の前では、すべての人は平等。ただ句境の深さが違うのみ。

耶蘇や仏陀に教えを乞う時に、恥ずかしいと思う人があっただろうか。どの人も心から、教えを聞きたいと熱望されたと思う。宗教と芸術、いずれも目指すところは心の平安ではないだろうか。そのために修行を積み、心境を深めるのだ。

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