2016年3月16日水曜日

狭庭という言葉

雑詠の選をしていると、狭庭という言葉を最近よく見かける。句会の清記でもしばしば目にする。自宅の庭を謙遜して、狭い庭と詠んでいるのだ。初心の時期に、俳句では丁寧語と謙遜語は使わない、と習った。17音しかない俳句で、丁寧な言葉や謙遜した言葉を使う余地はないと言われている。それなのに狭庭という言葉が流行しているのはなぜだろう。

流行語とは、だれかが使いだすとそれを真似る人がいて、広がって行く言葉である。虚子の「たんぽぽ黄」などはその典型で、春になるとどこの句会でも、一つ覚えのように「たんぽぽ黄」と詠んだ句を見かける。虚子の句集『六百句』に次の句がある。

        人々は皆芝に腰たんぽゝ黄        虚子
        たんぽゝの黄が目に残り障子に黄      同

これが「たんぽぽ黄」の源流であると思う。この句が人口に膾炙し、俳人の間に広がったのだろう。ある人が発明した表現はその人の専売特許であり、他の人が使うと偽物感がする。二番煎じだと思ってしまう。この事に良心の呵責を感じない鈍感な人が使って失敗するのである。杉田久女の発明した「ほしいまま」も、同様に彼女の専売特許であり、頓着せずに使っている句があると、私は無視することにしている。

さて、掲題の話に戻ろう。狭庭(さにわ)という言葉は広辞苑にない。広辞苑にないという事は、日本語として存在しないのである。広辞苑に有るのは「さ庭」という言葉だ。これには「斎(い)み清めた場所。神おろしを行う場所。」という解説がある。つまり、神祀りを行う場所のことなのである。大阪の住吉大社松苗神事の献詠句を拝見すると、この「斎庭」という言葉がしばしば出て来る。これが正しい使い方なのであろう。この「さにわ」という音が「狭庭」にも通じるので、誰かが使い始めたのかも知れない。

     咲き初めし狭庭の椿ぎっしりと

雑詠選で見かけた句である。私は「狭庭」という言葉にわざとらしさを感じる。自宅の庭が広大であるのに、謙遜して狭庭と詠む厭らしさを感じるのである。謙遜表現は、俳句に持ち込んではならない主観的な表現だと思う。従って、私はこの狭庭という言葉を使った句は頂かないようにしている。
    

4 件のコメント:

  1. なるほど、、、
    以前 何かの入賞作の中にこの「狭庭」という語があって調べたことがあります。
    確かに辞書(広辞苑)には載っていなかったけど、「狭い」庭という謙譲表現だろうと自分で納得したのですが。
    おっしゃるように殊更の謙遜は、とっても卑屈になってしまいますね。
    普段の会話にも取り入れて 気を付けたいと思います。

    通りすがりに書き込みさせていただきました。

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  2. 有益な意見ありがとうございます。

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  3. 眼から鱗でした

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  4. 前人の造語的な言葉は、やはり使いたくはないですね。創造者のやることではないです。

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