2015年10月11日日曜日

存問の一例

虚子はその著『虚子俳話』の中で、「お寒うございます、お暑うございます。日常の存問が即ち俳句である」と述べておられる。広辞苑を見てみると、「(存とは見舞う意)安否を問うこと。慰問すること」とある。つまり、存問とは挨拶をすること、と考えてよいと思う。

先日NHKの番組で、「勿体ない」という言葉を採り上げていた。飽食の時代であっても、食べ物を粗末にすることは勿体ない事である。この言葉を念頭に置いて、もう一度日常の生活を見直すべきではないか、との問題提起であった。

この場合の勿体ないは、当事者と廃棄される、又は粗末にされる物との関わり方である。粗末にする人とされる物との関係である。俳句で言えば、作者と季語との関係と言える。これに対して、関西地方では、別の意味の「勿体ない」がある。

かつて札幌で勤務していた時のことである。幼稚園児であった娘が腎臓を患い入院したことが有った。家内の母が滋賀から飛行機で駆けつけてくれた。私と二人で自宅を出る際、義母の靴の向きを直して置いてあげた。それを見た義母が「ああ、勿体ないこと」と言ってくれた。この「勿体ない」と食べ物の「勿体ない」とは、全く違うものである。

ここには、義母という有難い方の靴を揃えるという私の行為と、その行為を有難いものとして受け取った義母との、心の交流がある。その心の交流を、虚子は存問という俳句理念に掲げられたのではないかと思う。この事は俳句で言えば、作者と季題との関係であり、季題を媒介とした作者と読者との心の交流、つまり存問が俳句なのである。

         食進む新米といふそれだけで     伸一路

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